あくびの隨に 17話
前回
街の片隅にひっそりと建つ組屋敷は、奉行所として御用聞きや同心風の男たちが盛んに出入りし、時には町人が訴えに訪れることもある。ここが人々にとって、重要な役目を担う場所であることは間違いない。
しかし、これを差し置いて街の中心を陣取る御殿。
そこは行政を司るのではなく、色と欲を掲げる者たちの暮らす居城であった。
「――ぬしよ、笠はどうした?」
門番の脇を素通りし、大屋敷から姿を現してくる稲。
ちょうどその前を通りかかった逸流は、ようやく出会えた稲との再会に喜びつつ、今まで離れていた理由を訊ねる。
「ちょっとね。それより、どこで何してたんだよ。ずっと探してたんだぞ」
「そう目くじらを立てるな。私たちの成すべきことを考慮すれば、全ては取るに足らぬ些事であろう?」
お茶を濁すように、稲は単独行動を取っていた間のことだけ話し始める。
逸流はやや不承不承だが、稲が無意味な行動を取らないことは理解しているつもりだ。
仕方なく逸流は引き下がって、通りを歩きながら彼女の話を聞いた。
「この街は、桐之国にある色欲の街。現世の知識に合わせるならば、吉原であり大奥のような場所やもしれん」
「へえ、だから女の人がたくさんいるのか」
逸流も詳しく歴史のことを知っているわけではないが、そういった場所では女性の権力が強かったと認識している。
事実、この街の実権を握っているのは、今しがた稲が出てきた大屋敷に住む者たちた。
「桐之邸は街に住む、数多くの遊女を抱える総本山。この街に住むおなごどもは、献上金を支払う代わりに身の安全を保障される。ぬしも道中に、出会い茶屋や遊郭を多く散見したであろう。あれらは全て桐之邸の問屋のようなものだ」
ここにある色街の店は、どうやら桐之邸の名の下にその身分を買っているようだ。
揉め事があれば、桐之邸から十手持ちに連絡が届き、騒動を収拾してくれる。転じて、上納金が未払いの店に対しては、如何なる場合も手助けを行わないのだ。
「男は金を散財させるための道具。貧乏人は街を追われて外に叩き出される。だが、全てがその限りというわけではない。とりわけこの街で暮らすため、金の払えぬはぐれ遊女や夜鷹を攫って、自ら店を持とうと画策する者もおる。そして、そういったところの環境は劣悪を極めるのだ。ゆえに人々は危険から身を守るため、献上金に縛られ続けている」
「十手持ってる人たちは、自分から助けようとは思わないの?」
「全ては肉欲の常よ。実権を握るのがおなごどもならば、傀儡の如く手足を動かす役人どもは男。それを結ぶ縁ともなれば――」
稲は真顔で答える途中で言葉を切った。
「まあよい。私とぬしには関係のないことだ」
「なんかごめん。僕もそういうの疎くてさ」
「構わん。低俗に身を堕とすのは、畜生と相場が決まっておる。これはそれだけの話だ」
「……ところで、何かめぼしい情報は掴めた?」
稲が桐之邸から出て来たことを受け、逸流はその収穫を訊ねる。
すると、僅かに眉を潜めながら、稲はその実態を明かし始めた。
「あの桐ノ邸は従来、五大光家の血筋が住んでおった場所らしい」
「えっ、そうなの? だったら会えたのか?」
「ふむ。実はこれが少々入り組んでおるのだが、あそこに住まう者の中に、五大光家の血を引く者がおる可能性はあった。しかしな……」
稲は困ったように息を漏らした。
「桐ノ邸は今や花魁の園だ。その支配者は世襲制ではなく、日々の稼ぎの量に比例してあくる年の代表者が決まる。さらに子を成すと桐ノ邸を追われるという悪しき風習が根付いており、去った者の代わりに次々と街からおなごを集めているという話だ」
「人の出入りが激しいってことか」
「ゆえに五大光家の血筋だった者も、今や一介の町民と化している場合がある。これを手ずから探し出すことは暗中模索となろう」
「じゃあ、どうする?」
不安に煽られて、逸流はまじまじと稲を見やる。
しかし稲の方は一向にこれを心配する気配はなかった。
「案ずるな。ぬしがおる限り、五大光家の血筋とは惹かれ合う運命。この道も自ずと種を撒けようというものだ」
「……なんか呑気だな」
逸流はときどき稲が大物だと思うことがあるが、それは神だからという話だけではないのかもしれないと、このとき強く感じた。
「ときにぬしよ。先ほどより、あとを着ける者の気配には気づいていたか?」
「え――」
稲に言われた途端、逸流は振り返ろうとする。
「不用意に動くでない。敵はこちらが気配を悟っておらぬと高を括っておる」
鋭く稲に釘を刺され、逸流は前を向いたまま歩き続ける。
二人と間を開けて後方を付き従う、二人の浪人風。
恰幅の良い男は、右腕を懐に差し入れて余裕そうな態度。小柄な体躯の男は左手を刀の鞘にあてがい、常に抜刀できるように、逸る雰囲気が先走っていた。
「あのさ、稲。一応聞くけど、何で尾行されてんだ?」
稲が原因であることは明白だが、逸流は真相を質しておく。
小首を傾げながら、稲は小さく唸り声を上げた。
「ふむ。身に覚えはないが、ぬしと再会する前、桐之邸が子飼いにしている野犬から熱烈な誘いを受けてな。おおかた、新しい遊女でも探しておったのだろうが――」
「ちょ! だ、大丈夫たったのか、それ!」
男たちに絡まれていたと知り、逸流はとっさに稲の身を案じた。
その動揺ぶりに、稲は僅かに呆けながらも、次第に口端を緩めていく。
「なに、案ずるな。この街の内情を探るために、桐之邸へ招かれただけのこと。相手方の思惑に乗るつもりなどあるわけなかろう」
「良かった。稲が酷い目に遭ってたら、どうしようかと思ったよ」
「ぬしの気遣い、相も変わらず甘ったるいものだが……ふふ、悪いものではない」
どことなく浮かれ気分で、稲は後方の二人を意識する。
「しかし私などに構わずとも、あの場所に仕事を求めるおなごは数多おろう。なにゆえ、私のような色香もない女を追うのであろうな」
「稲は十分綺麗だと思うけど」
「……ぬしよ。その軽薄な台詞、三度目はないと知れ」
「あ、ごめん……というか、そもそも、どうやって表から出て来られたの? あんな堂々と脱出するなんて、スパイでも難しいよ」
「それは現代の忍びであったか? 生憎と私に隠密行動の真似はできん」
「じゃあ、どうやって?」
「座敷で出された酒に、一服盛られておってのう。男の頭にこれを返して、そのまま屋敷を出てきたのだ」
「……あぁ、うん」
尾行の心当たりしかない稲の言動に、逸流は返す言葉もなかった。
ともかく今は、この窮地を切り抜ける必要がある。何度角を曲がっても、当然のように浪人風の二人は一定の距離を保っていた。
逸流は次の曲がり角を正面に見据えたとき、取るべき行動を脳内で練った。
「稲、走るぞ」
「妙案ではあるが、地形に関しては敵の方が一枚上手では――」
稲の思慮を遮って、逸流は彼女の手を取っていた。
「――ん」
それが予想外の行動だったのか、稲は呆けた表情で逸流の横顔を眺める。
何か言葉を続けようとしていたが、それが果たされる前に二人の足は速度を上げた。
「……また断りなく、人の肌に触れおってからに」
ぼやく稲を引き連れて、逸流は街中で大捕り物を繰り広げた。
【続】
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