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あくびの隨に 15話
前回
空に仄かな茜色が指した頃に、三人は森を抜けて遥かな岩肌の前に立った。見上げた先は断崖絶壁の尾根伝い。
正面から登ろうにも直角の脅威に拒絶され、迂回しなければ人の足が太刀打ちできる場所ではなかった。そのため下方に開かれた、人の手の加わる洞窟が唯一許された道程なのだが、これを眼前に見据えた一同の表情は深く沈んだ。
「おそらく落盤ですね」
一陽は暗く閉ざされた洞窟の前で肩を落とす。
「他の道は複雑に入り込んでいて、ろくな用意も持たずに挑めば遭難は必至。ここだけが、直線的に桐乃国まで掘られた経路だったのですけれど……余分な労力を使わせたこと、お詫び致します」
一陽は逸流と稲に頭を下げた。
「いえ、これは一陽さんのせいじゃないんですから、そんなこと言わないでください」
逸流は身振り手振りで気を遣いながら、稲に意見を求めた。
「だけど、ほんとにどうする? 山登りって言ったって、どう考えても無理あるし」
「……待て」
稲は頼もしげに腕を組んで思考を巡らせる。
あどけない少女の姿につい忘れかけるが、彼女は逸流の想像も及ばない超常的な存在。まがりなりにも神を名乗る者に、この程度の困難は障害ですらないのかもしれない。
「ふむ。これはお手上げだな」
「ちょ、どう見ても何とかしてくれる雰囲気だったろ?」
危うくこけそうになりながら、逸流は稲に詰め寄る。
しかし以前も稲自身が言ったことだが、神の力とて万能ではなかった。
「無理を言うでない。今の私は、誓約だらけの不出来な身体だ。それこそ神の奇跡でもない限り、岩山を貫き通すことは不可能なのだ」
「そうかもしれないけど――って。そういえば、稲にかかってる誓約って何なんだ?」
逸流が兼ねてからの疑問を口に出すと、稲は僅かに表情を曇らせた。
「……乙女の秘を暴き立てるか。ぬしが羊の皮を被った狼とは思わなんだ」
「はい?」
一陽もいる前で妙なことを口走る稲は、逸流の反応を面白がってさらに調子に乗った。
「ぬしがそれほど豪胆であれば、致し方あるまい。私を知りたいのであれば、些か不本意ではあるが、この身一糸纏わぬこともやぶさかではないぞ?」
「……男女の営みは、此方のいないところでお頼みします」
「ち、違いますって」
あたふたしながら、逸流はなんとか誤解を解こうとする。
さすがに悪ふざけが過ぎたと思ったのか、稲はこっそりと逸流に耳打ちしてくる。
「案ずるな、種を撒く準備はすでに整っておる」
「種?」
「もっとも、それはぬしが気にかけることでないので省くが、これを成すためには再びぬしに協力を仰ぐことになろう」
「え? 僕に何をさせ――」
逸流が真意をただす前に、稲は一陽を振り返って真剣に面を飾った。
「一陽よ。そなたの抱く、この世ならざるものへの恩讐。この私も分からぬでもない」
「どういう、ことでございましょう?」
稲の踏み込みに、一陽は引き込まれるように意識を割いた。
「なに、そう難しい話でもない。身近なる者の命が失われ、やり場のない感情をぶつけたいと思うことは人の本能よ。誰に責められるでもなし。気心の向かうままに鬱憤を晴らすのは、己を保つ手段として実に理に適った行動原理であろう」
「その口ぶり……もしや貴君も、かつて?」
稲の奥底に何かを見たように、一陽は熱心な眼差しを向ける。
逸流からすれば、稲の台詞は一陽のための気休めと聞こえたのだが、当人同士はこれをまことしやかに交し合っていた。
「復讐の意を責めはせんが、その先の末路も視野には入れておくことだ。獣と化して不条理に立ち向かったところで、人間一人の力では一矢報いることすら敵いはしない。絶望に打ちのめされて残るものは、そこに開かれる喪失感だけだ」
稲は一陽の胸の中心を指さした。
「此方は……それでも」
己の未来に絶望を提示されたとして、人の気持ちはそう簡単に変われない。
稲もそう考えているからこそ、続ける言葉に含みを持たせた。
「そなたは変わらずともよい。さすれど、そなたのゆく道半ばに、交差する別の道があったとしても困りはせぬであろう」
「貴君らは、此方と関わりを持ちたい……と?」
小首を傾げて、一陽は稲の思惑を図ろうとする。
しかし、すぐ隣にいる逸流でさえ稲の心は読めないのだ。出会ったばかりの一陽にそれを知る術はなく、稲自身もまた、周囲に胸の内を全て明かそうとはしない。それでも彼女の考えに邪悪なものがないことだけは、逸流は断固として信じ抜くことができた。
「言葉は空気。誠意は鋼。私たちの秘する一端を白日の下に晒そう」
逸流と一陽から、稲は僅かばかり離れた。
天に祈りをくべるように、片手を頭上に掲げる稲。
その光景を逸流は一度見たことがある。
まだ明るい空に月は見えない。けれど人が認識できないだけで、それは確実に空を昇っているのだ。稲の示す方向の先から、下界へと注ぐ光に迷いはなかった。
「……月から光が?」
そのとき、空を見上げた一陽がぼんやりと呟く。
「一陽さん、見えるのか?」
逸流の目には昼間の月は見えなかったが、彼女は頷きながら答えた。
「ええ。此方は幼少より視力が良かったもので、よく獣を発見できると父母から褒められたことは、狩人としての誇りでした」
一陽の見据える月の彼方から、降り注ぐ光に乗って地上に降り立つもの。
「繚乱季装が弐の光――〝幕引〟」
勢いよく地面に突き刺さったのは、半月状の武具だった。
それは内側に短い扇面があり、複数の溝が彫り込まれた奇妙な形。
一見すると弓のようで、弦も握りもしっかり施されている。それでも歪な造りからとても弓には見えず、撃ち出すための矢も付属していなかった。
「ぬしよ、これを飲んでおけ」
通例とするように、稲が掌に生み出した紙きれは、誓約を生むための呪封符札。
摩訶不可思議な事態に一陽が唖然とする中、逸流は札を受け取って喉を鳴らした。そして地に刺さった弓を持つと、稲から注釈が入った。
「弓の最大の長所は、言うまでもないが射にある。それを行わずして、この塞がれた洞窟を貫く方法を考えよ」
「射れない弓って……そんなの、どう使うんだよ」
「私は知らん。そこの娘にでも訊くがよかろう」
稲に指示されて、逸流は一陽を見た。
彼女はぽかんと開いていた口を閉じて、双眸を逸流に向ける。
徐々に逸流の手元へと視線を落としながら、弓というには不格好な幕引を眺めた。
「繚乱季装。聞いたことはありましたが、まさかその実物が見られるなど……いえ、それ以前にこれを呼び出す術を持った稲嬢。貴君は、いったい」
さすがに神という発想には至らなかったようだが、一陽は怪訝を露わにした。
真偽を推し量るように、自らの持つ弓に手を伸ばしかける。突き抜ける眼光は、一心に稲の正体を捉え兼ねていた。
「ふむ。私をどのような存在と見定めようが、そなたの勝手よ。その弓に血を浴びせたいのであれば好きにせい。私は誓約により、それを押し留める術を持たぬ」
稲は何も弁明せず、一陽からの敵意をその身に引き受ける。
重たさを増す雰囲気に、逸流は慌てて二人の間に割って入った。
「い、一陽さん、稲は悪い奴じゃないです!」
「……逸流君?」
逸流の必死な声に、一陽はすっと耳を傾ける。
「たしかに稲には不思議な力があります。だけど、これだけは言えます。どんなことがあっても、稲は誰かを傷つけることはしない。僕が言っても説得力はないかもしれないですが、彼女は最後には困っている人を見過ごせない性格なんです」
「……まったく、ぬしは余分な戯言を……」
稲が呆れを含む隣で、一陽は逸流の顔をじっと見つめる。
「……分かりました」
ときに、弓をしまいながら一陽の顔には、ふっと微笑みが湛えられた。
「貴君が信じる相手であれば、きっと悪い方ではないのでしょう」
「あ、ありがとうございます。でも、どうしてそんな簡単に?」
「それは逸流君が、嘘をつけるような人物には見えないからですよ。他に理由が必要でしたら、強いて考えようと思いますが」
「いえ、とんでもない。本当にありがとうございます」
逸流は感謝しながら、肝心の本題を訊ねる。
「ところで一陽さん。弓を撃たずに使う方法ってありますか?」
自分でも妙なことを口走っていると思いつつ、逸流は一陽に期待を寄せた。
弓に長ける彼女は、それを馬鹿げたことと否定せず真摯に答えてくれる。
「矢が途切れたときに、弓で腐土の権現を殴打することはありましたね。けれどそれだとすぐに折れて使い物にならなくなるのですが、これは見たところ頑丈そうですね。この世のものではない素材が使われていそうですし、なによりこの独特な形状。此方の私見からすれば、投擲に向いているかもしれませぬ」
一陽は真面目に提案した。
扇面を握れば、たしかに投擲具として扱える可能性はある。ただ、矢を射るための遠距離武器を放り投げるというのは、逸流の感覚からすると些か乱暴な気もした。
「まあ、とにかくやってみるか」
他に選択肢もないので、逸流は幕引を握り締めて投擲の構えを取った。
右肘を折り畳んで外側に引き、肩より上の高さで手首を捻る。
目標は落盤で塞がれた漆黒の洞穴。
行く手を遮る自然の障害に、ただの人間が道を切り開くことは極めて困難だ。
何人もの力が合わさって、ようやく見通しの目途が立つような、あまりにも非力な個という概念。
されど、これを覆し得る力を秘めた、神の授けし光が一つ。
「……一陽よ。そなた、私たちに隠している事柄があるであろう?」
逸流が幕引を放とうとする後ろで、稲は一陽と問答する。
「それは稲嬢も同様ではありませぬか?」
「別段、私は秘を暴きたいわけではない。ただ、そなたには私と非常に近しいものを感じるのでな。先駆者として断っておくが、曇った眼で闇は晴らせん。恩讐に囚われた者の辿る道に、亡き者たちの意思は言葉すらかけてはくれなんだ。されど――そなたの目は、私と違いとても美しい。今ならば、引き返す道も残されておろう」
「此方の帰りを待つ者はおりませぬ。すでに桜之国は滅亡の危機に瀕し、これを復興させ得る可能性を持った血筋も、今やたった一人を残すばかりなのですから」
「そうか。私からこれ以上口出しすることもないが……」
稲は逸流の背中をその眼差しに宿す。
「もしそなたが、あやつにごく僅かでも光明を見出したとき」
稲と一陽の見据える先に、灯される輝き。
振りかざされた幕引から放たれる温かな煌めき。
逸流の腕が袈裟に振り抜かれ、手にした武器が直線上に投擲された。
その瞬間――
「そなたの力を、貸してはくれぬか?」
稲の願いとともに、眩い光は炸裂した。
岩と岩との間に激震が走り、四方に撒き散らされる衝撃は計り知れない。
その威力、まごうことなき一直線。洞窟の暗闇を隅々まで照らしながら、幕引は雷鳴の如く轟音を唸らせた。それは貫通どころか落盤を粉々に粉砕し、深淵の奥底を覗くかの振る舞いで、山脈の彼方を描き出す。
「このようなことが……あろうとは……」
一陽の視界は、洞窟の向こう側から差し込む日の光を映し出した。
開通されたその道の果てに、待ち受けるは果たして絶望か。
「此方のような修羅が、貴君らに助力することなど……許されるのですか?」
「そなたは未だ、悪鬼に身をやつしきれてはおらん。真っ直ぐな志を持ち続ける限り、私のように堕ちることは決してあるまい。復讐を願う想いを隠れ蓑とし、自らその命を死地へと運ぶことはないのだ」
稲は一陽の選択を受け止めると、目の前で倒れ込む逸流の下に寄った。
「……はぁ、はぁ……また、眠気が……」
季力を惜しみなく放出した逸流は、あくびを催しそうになっていた。
その肩に稲は手を貸して足腰を立たせる。
二人のやり取りを間近に、一陽から意を決したような清々しい響きが届いた。
「逸流君、稲嬢。もし貴君らの道に此方が必要となることがあらば、そのときはいつ如何なる場所にいようと駆けつける所存です。ゆえにそれまで、良き旅路に恵まれることを」
「はは……ありがとうございます、一陽さん……」
「これでこの道の役目も済んだ。なれば、また次なる道へと進むばかりか」
道は開けて行脚は進む。
あくびを噛み殺す逸流は、すぐに景色を塗り替えられた。
しかしその直前に見た、二人を見送る一陽は、見違えるほど晴れやかな表情を浮かべているのだった。
【続】
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