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あくびの隨に 30話
前回
「――六道網羅は終ぞ潰え、残るる道は凡てなし」
少女の声に、逸流の意識は覚醒した。
目を見開くと、そこには闇が広がっている。
空も大地も、あらゆる全てが、真っ黒に塗り潰された深淵の底だった。
そんな場所で、逸流の正面には稲がぷかぷか浮かんでいた。
「目覚めたか、愚か者」
「稲……だよな?」
開口一番に叱責してくるのは、灰色の輪郭をした稲の姿である。
常世において、明暗は逆転されていた。描画の背景を黒とするならば、人物は白。
これが重なり合った結果、灰色に染まった奇妙な出で立ちがそこにあったのだ。それどころか、この空間にはあらゆる概念がない。まるで宇宙の無重力で漂うように、稲はただそこにあるものとして静かに揺れていた。
背中になびく、灰色のポニーテールがいつにも増して映えている。
そして、その現象は逸流にも同様に起きていた。
「あれ、僕も浮かんでるのか?」
「何を驚くことがある。この常世は元より、あらゆる時間と概念を隔絶された空間。流動的な時間すら神の生み出したまやかし。ぬしのいた現世において、神の欠伸日と称するものが真あるとすれば、この場所がそれに該当しよう」
稲が神に封じられた常世の隔域。
それが今現在、二人がいるこの場所だった。
「ところで……僕は、生きてるのか?」
つい今し方のような記憶を辿って、逸流は稲に訊ねた。
繊月で胸を突き刺した気持ち悪い感触が、まだ手の平にこびりついている。けれど灰色の輪郭になった自らを確認しても、傷がついた形跡は存在しなかった。
「神の見る夢は近き未来。されど、六道網羅はそれに非ず。神となるべき器が、人の身より逸脱する過程である。ぬしに、その意味を与えるとしよう」
稲はふわふわと逸流の方に漂ってきた。
右手を伸ばし、すっと逸流の額に触れる。ひんやりした感覚から、灯火のような熱が逸流の内に流れ込んできた。
「……六道網羅。つまりタイムリミットの先延ばし、ってこと?」
逸流の問いかけに、稲は深く頷いた。
六道網羅とは、その名の通り六つの道を行脚する意。
餓鬼の道。
修羅の道。
畜生の道。
人の道。
天の道。
地獄の道。
総じて六道を人間に歩ませることを目的とした、神が与える試練だ。
六つの道を歩む目的は、神の器として相応しい者を見極めるため。これが全て果たされたとき、六道網羅を成した人物は、必ず神の依り代にならなければならないのだ。
しかし――本来、このような工程は存在するはずのないものだった。
「私たちの歩んだ道程こそ六道網羅に相違ないが、これは私の生み出したまやかしの現。神は自ら現世より依り代を選定するのだから、あえて六道を歩ませる必要もあるまい」
「六道網羅っていう概念が、そもそも存在しないってことか。それなのに僕たちがこの道を歩んで来られたってことは……稲が何かしたせい?」
「然り。私の持つ灰之防人の力とは元来、神の分霊として得たもの。それは、まがりなりにも神に匹敵し、多少の因果であれば捻じ曲げることも可能だ。そして私がこのような回り道を生み出した理由は、ぬしが神の器と成る時を遅らせるためだ」
「つまりは僕を救うため、か」
彼女に知識を分け与えられ、逸流はその真意までも汲み取った。
封節の社で神の依り代になるはずだった逸流は、留包国に呼び出される途中で、この常世に落とされた。
そこで稲と出会い、彼女は此度の構想を思い立った。
逸流を放置すれば、いずれは祭壇の木棺で死を待つだけ。稲はこれを救おうとし、神の犠牲者が再び現れることのないように、再びの神殺しを画策したのだ。
これを実行に移すには、まず常世から抜け出す必要があった。
稲は永遠に閉じ込められる存在で、留包国に帰還することは本来できない。
ただ、逸流は必ず留包国に転移することが分かっていた。
それを利用し、稲は六道網羅なる猶予の引き延ばしを生み出した。逸流が神となるためには、まず六道を歩むという概念を作り出し、そこに稲も同調することで常世から留包国への転移を可能としたのだ。
その際、送り込まれるのは少しだけ未来の留包国。
神の見る夢――いわば未来視を根柢に置いたことで、六道を歩むごとに時間が逆行していたのだ。
冷静に考えれば、季力は留包国では補充できない貴重なもの。繚乱季装の一発で消耗する力を、なぜ四度も放つことができたのか。
今にして思えば、その理由が六道網羅にあった。
旅の中で何度か遭遇した司垂も、お互いに認知することこそなかったが、二人が過去に遡っていくことで生じる歪みだったらしい。
二人と関わったことで、司垂は柳之国を旅立つ。しかし少し先の未来では、彼は一人伝聞屋として旅立っていた。それなのに、道が塞がっていた桐之国の岩山が切り開かれていたのは、いずれ過去に遡って幕引を投擲するから。
この矛盾する現象。現世の言葉では、タイムパラドックスと言ったか。
「いずれにせよ、単にぬしを救うために神を殺しては、邪なる蛇が解き放たれて留包国は滅ぶ。これを阻止するために、五大光家と結託して邪なる蛇を完全に討つ必要があったのだ。ぬしと五大光家を惹き合わせることで種を撒き、邪なる蛇との決戦の場に呼び出す。赤の他人としてではなく、紛れもない縁を持った同胞としてな」
「それが、今まで稲が種を撒いたっていう、みんなのことか」
松之国で出会った透非。
桜之国の出身である一陽。
桐之国に暮らす数良。
柳之国を旅立った司垂。
そして、常に傍らに在り続けた、芒之家当主の稲である。
「だけど、あれは全部未来の出来事のはずだよ。たとえこの場に全員集まったところで、誰も僕たちのことは知らないはずじゃ?」
「私とぬしに宿る記憶は消えてはおらぬ。それを同調させれば、助力を惜しむ者などおらぬであろう。それは彼らと触れ合ったぬしが、最もよく理解しているはずだ」
「そっか。たしかに、あのみんななら……きっと僕たちの力になってくれる」
「されどそれは――もはや叶わぬ夢だ」
おもむろに、稲は感情なく諦念を呟いた。
「最後の最後、ぬしは選択を誤った」
「どういうことだ?」
「天の道は唯一、神を殺す機会であったにもかかわらず、よもや自決を致すなど……たとえそれで神を殺せたとて、ぬしが死んでしまっては元も子もあるまい。季力がなければ繚乱季装は扱えぬ。たとえ五大光家が集結したとて、邪なる蛇と戦いにすらならぬわ」
「それは……なんか、ごめん」
「謝罪で済めば、現世では警察とやらはいらぬのであろう。全ての道が閉ざされた今となっては、もはやどうでもよいことであるがな」
稲はまるで、希望を失くしたようなことをぼやいている。
その態度に疑問を覚える逸流に対し、稲はどことなく哀愁交じりに揺蕩った。
「六道網羅は無為と化し、直にぬしは神の器とされる。そこに流す涙はとうに枯れてしまったが、私は最後までその傍らにあり、ぬしをこの常世で永劫に記憶し続けよう」
「……ねえ、稲。道はまだあるはずじゃないか?」
逸流は指を折って、これまで歩んできた道を数えた。
始まりの餓鬼の道。
岩山を目指した修羅の道。
色香漂う畜生の道。
醜悪な業を垣間見た人の道。
そして神へと至った天の道。と――
「地獄の道をまだ通ってないけど、そこで何とかならないのかな」
「ぬしは何を言っておるのだ?」
稲はたまげたように、両目をしばたかせる。
「地獄であれば、初めに通ったではないか。繊月を持って神を殺そうとし、常世へと堕とされた――……否、私は何を言っておるのだろうか」
はっとしたように、自らの言葉に稲はかぶりを振った。
「ぬしと記憶を同調させた影響か……私としたことが失念していた。そう、繊月によって神を殺そうとしたのは私のはず。そして繊月は、百年の間も変わらず封節の社に刺さっていた。ぬしがこれを行えるはずがないのだ」
納得しながら稲は、逸流に眼差しを向ける。
「まだ可能性はある……されど、神を辿る道は天の道を置いて他にない。再び封節の社へと至ることも厳しいやもしれぬし、そこでまたぬしが神に意識を奪われるようなことがあらば、今度こそ全ての道は閉ざされるが……」
「稲、君は僕と違って臆病じゃないだろ?」
逸流は稲を見つめ返し、憂慮に苛まれる心をほぐす。
それに加えて、先ほどから胸を空く奇妙な感覚について口にした。
「それに神様のことなら、もう気にしなくて良いんじゃないか? ほら、地獄には神も仏いないって言うし」
「この大事に洒落を聞く暇はないのだぞ。ぬしも緊張感を持たぬか」
「冗談のつもりじゃないよ。ちょっと僕の考えを聞いてくれないかな」
「まともな話であれば構わぬが、その他の類であれば、私とて怒ることもあるのだぞ」
むすっとした表情で、稲は逸流に耳を傾ける。
稲には何度も怒られた気もするが、それは横に置いて逸流は語り始めた。
「僕の記憶を見て知ってるだろうけど、僕の住んでた地方では、あくびを噛み殺さないと神隠しに遭うって話があったんだよ」
「ふむ、続けよ」
「この今まで何気なくやってた、あくびを噛み殺すって行いそのものが、実は神様に対する人間の生み出した抵抗だったんじゃないかな? 神の空く日みたいな言葉遊びになりそうだけど、あくびで神殺す、みたいな」
「ほう、興味深い。火のないところに煙は立たぬと言うが、ここはあえて――それがどうした? と伝えておく」
半信半疑に、稲の鋭い視線が突き刺さる。
これを傍に控えて、逸流は確信めいた持論をぶつけた。
「いやさ。さっきまで僕は神様と繋がってたと思うんだけど、今はぜんぜんそんな気がしないんだよね。昔から直感が良い方なんだけど、もしも僕が死にかけてたあのとき、おまじないが効いたんだとすれば、もう神様はいなくなったって思わない?」
「直感か。神のあくびに生まれたぬしには、もしかすれば神の見る夢の力の一端があるのやもしれん。されど六道網羅は、あくまでも未来事象。よしんば、ぬしの妄言が現実だったとしても、次なる道で神は復活を果たし――」
稲は言いかけて、考え込むように口を閉ざした。
眉間に深くしわを寄せて、思考をまとめるためか、ぶつぶつと言い募る。
「……封節の社は、過去、現在、未来を同時に担う場所にある。そこにあるべき神はただ一人であり、いかなる未来事象においても神なる存在は同一。天の道で神という存在がこの世から消えたのなら、地獄の道に神はもう――」
稲は逸流の当てのない直感から、一つの結論に至ろうとした。
そのときだった。
二人の目の前で、漆黒の空間が歪んだ。
逸流と稲以外、何者をも存在するはずのない場所に、物理的影響が及んだのである。
「……邪なる蛇が封じられる奈落は、この常世に近しい概念にあるという。本来なら干渉を受けることすらないのだが、神の封印が消え去って力を取り戻したか」
「それって、やっぱり神がいなくなったってことか?」
「分からん。ただ……そうだな。ぬしよ、少々目を閉じよ」
「え?」
一瞬、逸流は意味不明だったが、彼女を信じてすぐに瞼を閉じた。
すると稲が空間を漂う気配がし、何をしているのだろうかと思った矢先。
「やはり。すでに、ぬしと神との繋がりは失せておる。けれど……これは」
ぴたりと、逸流の額に稲の額が触れ合っていた。
思わず目を開いてしまった逸流は、真正面で両目を閉じる彼女の顔に戸惑った。
人と背景の明暗が入れ替わった、全身灰色という奇妙な輪郭の身体でなければ、逸流は平常心を装うことも難しかっただろう。
「え、えっと、稲さん。もう、良いんじゃないかな」
「ふむ、そうであるな」
稲は要件が済むと額を離し、逸流は少しだけ名残惜しさを覚えた。
二人は常世の異変を肌で感じつつ、気を引き締めて互いに確認を行う。
「最後の道は地獄に通ず。また、六道網羅は道を重ねるごとに、向かうことのできる未来が狭まっていた。おそらく、今度の道は未来ではなく現在からの地続き。そこで起きた出来事は、二度と取り返しのつかぬ事象よ」
死んだらそれまで。
そんな人の常を、稲はまことしやかに告げる。
「……逸流よ。それでも私とともに、地獄の道を歩む覚悟はあるか?」
問われる覚悟に、引き返す道はない。
それはこれまで歩んだ道程と、何ら変わることのないものだった。
「稲? 今、僕のこと名前で呼んでくれた?」
「このようなときに、妙なことを言い出すでない」
「あぁいや、今までまともに名前で呼ばれたことなかった気がしたから、なんかびっくりしちゃって」
「まったくもって緊張感のない男だ」
稲は嘆息を吐きながらも、その意味について答えてくれる。
「……ぬしの中には、神としての側面があった。仮にぬしを――世多逸流という男をそこに認めれば、これが失われたとき。私はこの常世の狭間で、どのような顔をして過ごせばよいと言うのだ。悠久とも思える時間の孤独に身を置いて、久方ぶりに出会った相手が消えてしまう。そんなものは、生き地獄であろうに」
「……そっか。なら稲を悲しませないように、僕はちゃんと生きないとな」
「これから死地に向かう者の言葉とは思えぬな。その自信、どこから湧いてくるのだ」
「やらなきゃいけないことは、やり通すのが人間だ。それを疑う余地なんてないし、僕はそのことを――」
「覚悟とは、言わぬのであろう?」
対話を重ねて心は通じ、向かう道はともにある。
なれば、それを恐れる必要などありはしない。
かくて二人は、最後の旅路に赴いた。
【続】
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