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あくびの隨に 31話

前回

 封節の社から灯火は消えていた。
 祭壇を照らす松明から炎は失せ、木棺に納まるべき神はこの世界から絶たれている。
 五つの鳥居を眼前に控え、これを望む逸流いつるいね
 祭壇の真下から、蛇のように立ち上る闇の瘴気が天に立ち込め、白昼の日差しを暗雲によって呑み込んでいく。周囲の枯れ果てた木立と相まって、そこはまさしくこの世の地獄を表すようであった。

「封節の社が剥き出しになっておるな。神が消え、これを隠匿する結界も破られたか」
「あの黒い煙って、邪なる蛇が出してるのか?」

 地表の方々より噴出する黒い霧状に、逸流は嫌な気配を覚える。
 稲は頷きながら、そこから現れるものの正体を口にした。

「然り。よこしまなる蛇――と神は名付けたが、その本質は人の負。かつて千年もの昔に、現世うつしよに生きる者が留包国るほうこくに迷い込んだ。ぬしの知る時代で表すならば平安の世。おそらく神のあくびに因果の壁が崩され、俗にいう神隠しに遭ったのだろうな」
「神隠しなんて、ほんとにあったんだ……って、僕もそうだったっけ」
「者どもはこの地に国を作り、闘争という現世における歴史の焼き増しを行った。その果てに、大地に流れた人々の血と嘆きが、邪なる蛇という怪物を生み出したのだ。これを払うべく、大本なる神は天上より舞い降りて、分霊によって依り代の姿に身をやつし、後の五大光家ごだいこうけ繚乱季装りょうらんきそうを与え、邪なる蛇の封印に成功した」
「神様の分霊って、灰之防人かいのさきもりに力を与えるみたいなことだよね。元々この留包国にいた依り代に分霊したとなると……神様は完全に、この世から消えたってわけじゃないのか?」
「当然であろう。神とは永久不滅の神秘。それが真に消えることなどありはせん」
「それなら良かった。神様がいなくなったなんて知ったら、死んだ婆ちゃんも悲しむよ」
「まったくぬしの世迷言は、愚かしくも愛おしい。されどこれより先は真の死地。油断は死を招く。ぬしもそれを心得よ」

 稲は表情を引き締めていた。
 触れれば斬れてしまいそうな真剣さに、逸流も余分な思考は破却する。
 彼女を悲しませないため、自分が死んでしまわないため、人ならざるものを滅ぼすことをここに誓わなければならない。
 遥か下層の奈落より、地上へと顕現しようとする人の負の象徴、邪なる蛇。その復活の影響は、この場において如実に表れていた。

腐土の権現ふどのごんげんが、あんなにたくさん……」

 地面から湧き出てくる、無数の土くれに逸流は身の毛がよだった。
 封節の社だった場所を取り囲み、邪なる蛇の復活を祝うように、有象無象の人型が次々に姿を現してくる。目視だけでも数千は遥かに超えていた。
 また、激しい地響きとともに大地を突き破る大型の土蛇。さらには、鳥や犬や馬などの畜生を模した腐土の怪物まで見受けられ、異教徒たちの邪悪な儀式の如き光景が広まっていく。
 これだけの物量が人里を襲えば、到底対処しきれるものではない。
 犇めき合った怪物の群れに、逸流は僅かな震えを覚える。

「……案ずるな、逸流よ」

 逸流が不安げな面差しをしていたせいか、稲が穏やかに告げた。

六道網羅りくどうもうらの旅路は決して無駄ではなかった。果てなき道に導かれしつわものたち。在りし日の五大光家にも勝る者どもが、私とぬしの道を照らしたのだ」

 稲は悠然とした足取りで、封節の社に建つ、五つの鳥居の中心を目指した。

「壱なる者は、松之家として鶴首かくしゅを突いた」

 左端の鳥居全体に輝きが灯っていく。
 同時に右手を振り上げた稲は、闇に染まりつつある天より光の柱をそこに降ろした。

「弐なる者は、桜之家として幕引まくいんを射た」

 左から二つ目の鳥居に明かりが灯り、光が降ろされる。
 その頃から腐土の権現たちに異変が生じ始めた。

「参なる者は、芒之家として繊月せんげつを振るった」

 稲の歩む中心の鳥居に同様の現象が起き、ざわめく土くれの視線が向けられていく。

「肆なる者は、柳之家として雨隠あまがくれを刈った」

 眩い光に引き寄せられるように、土塊の衆はのそのそと鳥居に近寄った。

「伍なる者は、桐之家として鳳葉ほうようおろした」

 しかし全ての門が放つ目が眩むほどの煌めきに、腐土の権現たちはその場で静止を余儀なくされた。
 神聖さに触れて不浄を拒まれるかの如く、邪悪なる者たちが射竦められる中で、この眩い景色を望むことのできた者は逸流ただ一人。

「集いたるは五大光家。繚乱季装が五光をかざし、邪なる蛇を討ち果たす者なり」

 かっ、と周囲を呑み込む真っ白な光。
 稲が鳥居をくぐり抜けると同時に、天空より飛来する五つの陰影。それぞれの光の柱から、影は地上目がけて落とされる。

 されど、これが大地に突き刺さることはない。

 各々の門より顕現せしめし五人の者たちが、しかと繚乱季装をその手に収めたのだ。

「――ここが死後の世界でないとあらば、儂の全てを預ける所存」
「――貴君らの力に成るときが来た。そう思ってもよろしいのですね」
「――んだよ。自分がいねぇと、ほんっと情けねぇよな。にぃにたちはよ」
「――お二人さんの馬鹿に懸けた、大馬鹿たちがお通りだよ、ってとこかね」

 六道網羅の旅路の果てに、逸流と稲の撒いた種は、今ここに花を咲かせた。

 鶴首を突きし者、松乃透非まつのとうひ
 幕引を射りし者、桜乃一陽さくらのいちよう
 鳳葉を下ろし者、桐乃数良きりのかずら
 雨隠を刈りし者、柳乃司垂やなぎのしだれ
 繊月を振るいし者、芒乃稲すすきのいね

 彼らは繚乱季装を扱うことのできる、五大光家に連なる者たち。
 かつて邪なる蛇を神とともに封印した、つわものたちの血を受け継いでいる。

「地獄まで馳せる、うつけ者が揃い踏みか。ひとまず礼は述べておこう」

 稲は繊月を右手に謝辞を口にしながら、逸流を振り返った。

「逸流よ。こやつらを呼び寄せた折に、記憶の共有は済ませておる。さりとて、その血に受け継がれた呪封符札じゅふうふさつの誓約は解けておらん。その戒めを、ぬしが解き放つのだ」
「え、どういうことだ。僕にそんなことできるわけ……」

 逸流は稲の言葉に驚きながらも、繚乱季装に施される誓約の意味が脳裏を過ぎった。
 人の身では、御しきれない膨大な力。
 何度もそれを行使した逸流だから理解できるが、あれをまともに扱えば命が削られる。
 季力を有していれば、これを糧に力を振るうことは可能であるが、留包国の人間に代替できるものはない。
 それゆえに誓約は必須であり、これを破る方法など逸流は知る由もないが――

「分からぬか? 繋がりを得たまま、ぬしは神を殺したのだ。ぬしの身に残されるは、灰之防人と同じく神の分霊――否、神の現身だ。逸流よ。今こそ、ぬしの持つ季力を私たちに分け与えるときぞ」

 稲は眼差しに熱を込めて逸流を観る。
 他の四人からも集まる視線に、逸流は胸の内に感じる高鳴りを覚えた。
 それは己の全身をくまなく駆け巡る季力の脈動であり、神が遺した力の残滓。思えば、神は逸流を依り代にしようとしたが、それは人々のためを思ってのことだ。
 そこに善悪の垣根はなく、ただ平和という安寧を求めた結果である。
 自分の命を供物にされかけたことは決して許そうと思えないが、一心に留包国のことを想い続けた神なる意思。
 お人好しだと馬鹿にされるかもしれないが、少なくともそれだけは逸流にとって、唯一認められる得難いものであった。

「……根っから神様を信仰してるわけじゃないけど、僕も氏子の生まれだからな。その力を信じて、少しだけ貸してもらいますよ」

 逸流は右手を前に突き出し、そこに季力を集中させた。
 滲み出る光は、輝きを増しながら五大光家の面々を包んでいく。それは繚乱季装における誓約の解呪を果たすとともに、彼らの内に多大なる季力を満ち溢れさせた。

「あったけぇ。にぃにからもらった光が、自分の胸でぽかぽかしてんぜ」
「あのとき、枯れた松を蘇らせた奇跡。しかと、この身に享受致した」
「止まない雨すらも晴らす力。なるほど、あっしにゃもったいねぇほどだわ」
「これはたしかに心地良い。此方の荒んだ心さえも癒してくれるようです」
「ほう。どうやら、私が神に与えられた戒めも同時に解呪されたらしい」

 稲はそう言いながら、逸流の方に戻ってくる。
 逸流から溢れた光が収まると、大地に響く衝撃とともに、辺りの腐土の権現たちが一斉にその身を沸かせた。声なき喉で雄叫びを上げるように、人型は両手を振り上げ、畜生たちは空を見上げ、巨大な土蛇は舌を突き出す。

 逸流の眼前までやって来た稲は手短に告げた。

「後手の誓約なき今、我が殴蹴に仔細なく――」

 左手を伸ばし、稲の掌が逸流の胸板に触れた。
 どくん、と心臓が鼓動する。

「ぬしの〝季力殴蹴きりょくおうしゅう〟に憂いなし。〝余〟の研鑽の日々、その全てを授けようぞ」
「ありがとう、稲。君の磨き上げたわざ、使わせてもらうよ」

 内に宿った稲の技量は、あらゆる外敵を殲滅する破壊の一手。
 それは獣の在り方であり、されど邪悪な存在に躊躇は必要とされず。
 腐土の軍勢を周辺一体に控え、繚乱季装と四肢を構える六道に集いし存在たち。

「一人頭、何匹を目安にすりゃあ良いのかね。誰か算術得意なの、この場にいるかい?」
「くっだらねぇ。んなもん、目につく奴、片っ端からのしちまえば良ぃんだよ」
「娘が斯様な口の利き方をするものではない。……まったく、藻美もみの奴に似ているな」
「どちらにせよ、森の外に出したら全てはお終いです。この場で掃討しますよ」
「直に邪なる蛇も姿を現す。その前に腐土の権現を悉く土へと還そうぞ」
「ああ。僕たちがいる限り、あいつらの好き勝手にはさせない」

 双眸鋭く、握る拳に力を込めて。
 六人は明日の未来のために挑んでいく。

【続】


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