見出し画像

あくびの隨に 27話

前回

 五つの鳥居を背後に控え、逸流は階段の連なる祭壇の前に立っていた。

 そこはいつか見覚えのある景色。
 おぼろげな記憶ではあったが、己はこの場にいて三日月状の刀を握り締めていた。そして、それを祭壇の頂上に安置された棺で眠り続ける、謎の老人に突き立てようとして――

「よるべは去り、ついぞ天の道を頂くか。果ては恩讐との決着のとき」

 声に驚き、はっとして逸流いつるは隣を見た。
 そこにいたのは、変わらない少女の容姿を持った和装のいね
 灰色の後ろ髪を揺らし、袖をなびかせながら、松明に照らされた祭壇を見上げる。
 蒼穹に晒される原初の棺は、変わらずそこに在り続けていた。
 旅の終着があの場所なら、中にいる者の正体は自ずと判明する。

よこしまなる蛇……――いや」

 逸流は傍にいる稲を無言で見つめる。
 視線に気づいた彼女は、淡泊な表情を保ち、こちらを向いて短く告げた。

「ぬしよ、ともに参ろうぞ」

 稲はそう言ってから、左手を伸ばしてきた。
 何もせずそれを静観して見守ると、彼女は逸流の右の掌にこれを重ね合わせて、その小さな手を子供のように絡み合わせてくる。
 逸流は頷き、稲のなすがままに手を握りながら祭壇を登った。
 二人は静かな足取りで、両脇を松明に飾られた石段を踏み鳴らす。最小限に抑えられた足音が、誰ともない配慮に思える中で、逸流と稲の前にその光景は映し出された。

「長き眠りの末に、私は再び戻ったぞ。そなたの惰眠を終わらせるときが訪れたのだ」

 稲は木棺に納まった人物に語りかけた。
 そこにあるは老人の姿。痩せ衰えた身体付きに、栄養のない体毛。そして顔のすぐ横に突き刺さった三日月を模した刀まで、逸流の脳裏に燻る記憶と同様だった。

「……違う」

 しかし、逸流は気づいた。

 眼下で眠る男は、紛れもなく謎の老人。
 ただ、全体を通した雰囲気が異なっている。
 同じような歳の取り方であっても、持ち前の顔立ちや体格まで偽ることはできない。
 ここにいたのは、逸流の記憶にいた人物とは明らかに別人だった。

「これは誰なんだ……稲?」

 彼女に片手を奪われたまま、逸流はその横顔に目を凝らした。
 稲は棺に視線を向けた状態で返してくる。

「邪なる蛇――と名を出しても、ぬしはもう信じてはくれぬのだろうな」
「悪いけど、これが僕たちの倒す相手には見えないよ」

 逸流はそう言って周囲を見渡す。

「ここが封節の社だってことは、僕でも分かる」

 封節の社は、封節の森の中央にある神の住まう場所。
 周囲の空間は神の因果によって歪められており、たとえ森を真っ直ぐ直進したとしても、ここを発見することはできない。神に選ばれし人間か、灰之防人かいのさきもりでなければ祭壇に辿り着くことはできないのだ。

「君は邪なる蛇に成り代わられたって言ったよな。それなのに、この人からは嫌な感じがしない。むしろ今まで稲に感じてたような不思議な感覚がする。これってつまり……」

 逸流は直感とともに、自らが抱いた考えを口にする。

「この人こそ、本物の神様なんじゃないか?」
「……是と頷けば、ぬしは私を如何様いかようにするというのだ」

 今の今まで神と名乗っていた少女は、暗に逸流の推測を認める。
 その上で、逸流と重ね合わせた手の平に力を込めた。

「別に、僕は君を信じないわけじゃない。何度も言ってきたように、僕はたとえ死ぬ寸前でも君のことを疑わない。だけど、ここまで来たんだ。少し、君の本当の話を聞かせてもらっても罰は当たらないんじゃないか?」
「罰を当てる神は、この通り眠っておるが――よかろう。私の記憶をぬしに与えよう」

 稲は右の手を出して、逸流の額に触れようとした。
 これを寸前で逸流は止めさせる。

「やめてくれ。僕は君の口から聞きたいんだ。人と人が分かり合うには、会話が一番って言ったのは君だろ?」

 真っ直ぐな逸流の眼差しに、稲は挙げた右手を下ろしていく。
 頑なに握り締めた左手は変わらず、互いの温もりを混ぜ合いながら、稲は全てを悟ったように、ある過去の話を語り出した。

「今の世からすれば、もう百年も昔か。当時、芒之家の当主は若き娘だった。家督は男児の継ぐものであるのが通例であったが、長男はすでに灰之防人に選ばれていた」
「兄妹で選定の日って……何歳で選ばれたの?」
「兄妹の歳の差は一回りだ。二人の母が中々に子を成し難い体質だったものでな。兄は十八の歳に始めて選出され、そこで灰之防人の座を射止めてしまった。そうなると年老いた父が次の選定の日に出るわけにもいかず、残された妹が当主の座に就いた」
「他に任せられる人はいなかったのか?」
「不測の折には分家こそあったが、やはり選定の日に向かうべきは、本家の血筋という習慣が根強かった。周囲は何度か妾を取らせようと画策したが、兄妹の父はただ一人愛した妻を生涯大事にするような人物。妹が当主となることは必然だったのだ」

 五大光家に生まれついた宿命は、その妹にとっては呪いにも等しかった。

「灰之防人は、封節の森の外に出ることはない。たった六年。ごく短き兄との記憶は、妹にとってはかけがえのない大切なものとして心にあった。それを神という得体の知れぬ存在のために、愛おしかった兄を失うことになる。幼心に、それがどれほどの執念を生み出すか、もはや語るべき言葉すら見つからぬ」
「……その子は、よっぽどお兄さんが好きだったんだね」

 肉親を失う悲しみは、芒之家当主の娘に深い怨嗟を残した。
 来たるべき選定の日を待ち望み、女であることを捨てるように、その日々はひたすらに武の研鑽を積み重ねていく。己が確実に時代の灰之防人となるべく、他者を蹴落とすことのみに磨き上げた技量は、手段を選ばぬ獣の在り方として完成されていった。

「最愛の者の命を奪った相手への隷属。その屈辱を押し殺し、徐々に羅刹らせつと化していった娘の前に敵などなかった。半ば常軌を逸した恩讐が、あらゆる障害を跳ね除けたのだ」
「……でも、結局は」

 脳裏で点滅するように浮かぶ光景を、逸流は思い出す。
 祭壇を上がり、木棺に眠る老人を三日月の刀で殺そうとした、あの人物のことを。

「然り。その先に待ち受けるは、無知に過ぎた者の末路。仮令かれい、神を殺すこと叶ったとて、封印を解かれた邪なる蛇に留包国るほうこくは呑み込まれる。されどあのとき、娘は――は、他の全てを些末事として捨て置いた」

 かつて、灰之防人の座を掴んだ、芒之家当主の少女。
 喪った兄を想い、神への復讐を誓った、無垢で残酷な願いの持ち主――稲は、羅刹に堕ちたときの心境を言表す。

「姿形すら見せぬ神とやらが、まことに信じるに値すべきものなのか。人間を灰之防人として手元に置き、命を食らうだけの怪物ではないか。そのような考えに囚われて、余はありとあらゆる本質を見失っていた。神の半身たる灰之防人が刃を向ければどうなるかを、理解すらしておらなんだ。そしてその悪辣たる影響が、今の留包国に反映されているとはな」

 灰之防人の力を持ったまま、神によって常世とこよに落とされた羅刹。
 そのために腐土の権現に対する抑止の力は消え失せ、多くの人々が犠牲となった。
 稲の行動によって、留包国は滅びの一途を辿ろうとしているのである。

「時の動かぬ常世の狭間で、都合百年。我に返るには、些か長き歳月であった」

 僅かに震える稲の左手を、逸流は自らの右手に感じる。

「……稲、一つ聞きたい」

 彼女の独白を受け止めながら、逸流は疑問を提示する。

「百年前に君の見た神と、今ここにいる神の姿が違うのはどうしてだ」
「……ぬしにとって悪しき真実。それでも聞く覚悟はあるのか?」

 稲は確認するように、逸流を上目遣いに見つめる。
 そこには憂いと哀愁が混ざり、心根から逸流に対する気遣いが感じられた。だが、ここで首を横に振るようなら、初めから彼女と行動を共にしてはいない。

「知るべきことを覚悟なんて僕は……って、なんか前にも似たこと言ったな。ともかく僕はやるべきことを、もったいぶる気はない。だから頼むよ、稲」
「そうか。ぬしがそうあるのなら、覚悟するべきは余――否。私の方やもしれん」

 稲は逸流の慣れ親しんだ響きに戻しながら、神たる存在の本質を明るみにした。

「灰之防人となった私は、神の有する知識も得た。そこで知ったのは、神の肉体は人間を依り代にしているということだ」
「交霊術みたいな?」
「然り。神の御業は、一人の人間を完全に己の意のものとして、この棺の内に縛り付けてしまうのだ。さりとて、この留包国に暮らす者では依り代として務まらん。ぬしも知るように、留包国は邪なる蛇に穢されて季力が存在しない。神の器は、潤沢な季力を宿した者でしか成り得ぬのだ。そしてその意味、ぬしはもう気づいたであろう?」
「まさか、僕が留包国に呼ばれた本当の理由って……」

 ぞくりと、背筋を伝う冷たさがあった。
 邪なる蛇は、元々神に成り代わってなどいない。
 生贄など最初から呼べるはずもなかったのだ。
 そうなると、本当に逸流の身体を欲していたのは、新たなる依り代を求めて現世に干渉した存在。
 眼前の木棺で眠り続ける、神様に他ならなかった。

「神は百年ごとに老いる肉体の維持を果たす。およそ人間の寿命だ。季力を持った者は現世にしかおらぬが、無作為にこれを抽出することはできん。元来、留包国と現世に接点はなく、永久に交わることのできぬ世界なのだ。しかし、唯一これを可能とするのは、神のあくびに生まれ堕ちた存在。そう――」

 稲は厳かに告げた。

「〝神の空く日〟に、ぬしは選ばれてしまったのだ」

【続】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?