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和歌の世界に、涼をもとめて。

連日、気がつけば、「暑いなぁ…」ということばがこぼれ落ちてばかりいます。

なにか、涼を感じるものにふれたい。
ただ冷たいだけではなくて、気持ちが凪ぐようなもの、森閑とした空気をまとったものが良いな。

志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づるありあけの月

「新古今和歌集」639  
藤原家隆朝臣

本棚から「新古今和歌集」を取り出して、冬歌を眺めわたします。

上の一首は、高校生のときに古典の教科書のなかで出会って以来、ずっと好きなうた。
凍てついた月の冷たさ、美しさに指先がしびれるような感覚をおぼえました。ことばの連なりを見ていると、今いる場所から離れて、モノクロームの世界に佇つような心地がします。

家隆のうたから連想するのは、歌合せで詠まれた定家の一首。

一年ひととせをながめつくせる朝戸出あさといでに薄雪こほる寂しさの果て

六百番歌合 冬 より
藤原定家朝臣

定家といえば、華やかな技巧を駆使した詠風で知られる歌人ですが、上記のような一首にふれると、どれだけの孤独を自身の内側に抱えていたひとなのだろう、と思います。
はからずも彼の心の底を垣間見てしまったように感じて、ひやりとするのです。

ありあけ、朝戸出。そして心は、暁へ。

しづかなる暁ごとに見わたせばまだ深き夜の夢ぞ悲しき

「新古今和歌集」1970
式子内親王

季節は明示されていないのですが、冬場のまだ暗い早朝に目を覚ましたとき、このうたが脳裏に浮かぶことがあります。
"悲しき"ということばは、わたしの中では"青色"のイメージなので、このうたをくちずさむと、清流の中に手をひたしているような気がするのです。
彼女の悲しさがひとすじの流れになって、目の前に在るような気がする…、といえば良いのかな。
水をあらわすことばはひとつも無いのに、そんなふうに感じるなんて不思議ですよね。

新古今時代に生きた歌人のうたにふれて思うのは、自然と向き合う時間も、自分自身の内奥を見つめる時間も、現代よりずっと長かったのだろうな、ということです。
ことばで美しい世界を創り上げていくことに注いでいた思いの深さも感じられて、だからこそ遠く離れた時代を生きるわたしの心にも響くものがあるのだと、そう思います。

歌集をひらけば、ひとつのうたから数珠つなぎに様々なうたを思い出して、時がたつのを忘れてしまいます。
清冽な空気の中をたゆたっていると、暑さで弱っていた心身も、生き返るような心地がするのでした。

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