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雨の日は相合傘で [短編小説]

 ずっと闇の中を走っていた電車が一気に地上へ出た。いつもならオレンジ色に染まった夕暮れの街が出迎えてくれるのだが、あいにく今日は雨模様だ。すっかり街も闇の中に沈んでいる。
 地下鉄丸ノ内線は地上区間が多い。特に泰子の最寄り駅である四ツ谷駅は、電車が地上に出てくるところをホームから見ることも出来る。朝は電車に乗って闇の中へ、夕方は闇の中から光のある世界へ。そんなくり返しが、なかなか馴染めていない会社勤めとどこか重なって、いつも心のどこかで苦笑してしまう。
 泰子が秋田の田舎街から上京して、すでに五年が過ぎていた。泰子が勤める会社には、なぜか地方出身者が多い。働きはじめてしばらくすると、同僚の何人かが、「地下鉄が地上を走っていて驚いた」と言っていた。確かに、この四ッ谷駅だけではなく、中央線の御茶ノ水駅のホームからも神田川を渡る丸ノ内線を見下ろすことができる。ずっと東京で暮らしてきた人にとっては当たり前の景色かもしれないが、地下を走るから地下鉄だと思ってきた者たちには、なかなか信じられない光景なのかもしれない。
 そんなことを思いながらホームに降りると、冷たい雨が後ろで束ねた髪を濡らした。今日はいつもの車両に乗れなかったのだと思い出す。四ツ谷駅のホームは端へいくと屋根がない。慌てた泰子は小走りで改札へと向かった。
 天気予報では明日の未明から雪が降ると言っていたのに、少し早まって雨になったようだ。どうせ週末で休みなのだと安心していたから、折りたたみの傘も持ってきていない。改札を出てしばらく暗い空を見上げていたが、雨はどんどん強くなっている。駅のショップを覗いたが、ビニール傘も全て売り切れていた。今日は自分と同様に、傘を持たずに家を出た人が多かったのだろう。
 待っていても小雨になる気配がないので、泰子は思い切って家まで歩くことにした。一人暮らしのマンションは、四ツ谷駅に近いしんみち通りという商店街を抜けた先にある。商店街とは言っても、あるのはほとんどが飲食店だ。泰子もたまに食事をしに立ち寄る。どこか地元の駅前通りに似ていて、昭和の香りというか、懐かしい空気が漂っていた。途中で雨脚が強くなったら、そんな中の一軒で夕食を済ませていくのも悪くないだろう。そう考えながら、泰子は雨の中に一歩踏み出した。
 ところが、顔を濡らすはずの雨が当たらない。上でバラバラと音がする。見上げると、黒くて大きなこうもり傘がさし掛けられていた。驚いて斜め後ろを振り向くと、背広姿の見知らぬ男性が、傘を差しだしていた。
「傘がなくてお困りでしょう。予報と違っていたから」
 穏やかそうな顔をしていた。背丈は泰子とあまり変わらない。見るからに中年のサラリーマンといった風情だが、まさか相合傘で帰ろうとでも言うのだろうか。
「近くですから結構です」
 つい語調がきつくなった。こんな経験は上京してから一度もない。以前、一度だけ交差点の信号待ちをしている小学生の男の子に傘をさしかけている女性を見かけたことがある。信号が変わるまでと、話しかけている声を聞いたが、小学生は勢いよく走り去っていた。
 東京とはそういう街だ。子どもだって、世の中に善意ばかりが溢れていないことをよく知っている。ましてや、若い女性に親切にする中年男など、どんな下心を隠しているかわからない。下心とまでは言わないまでも、雨に濡れない代わりに、歩きながら根掘り葉掘り質問されるのは正直鬱陶しかった。振り切って足早に去るのが一番だろう。だが男は諦めない。
「近くでもいいから、入っていきなさい。冬の雨は思っている以上に冷たいんだから」
 そう言って、泰子の歩く速さに合わせてくる。語調の中に、自分は怪しい者ではないというつぶやきが混ざっているように感じた。
「風邪をひいてしまうよ」
「でも、大丈夫ですから」
 何とか断ろうと考えを巡らせながら、さらに歩みを速めてみたが、男はついてくる。周囲には同じ方向へと歩いている人たちがたくさんいた。ここで怒鳴り声をあげるわけにもいかない。見れば男の背広の肩が濡れている。無理な姿勢で歩いているから、当然と言えば当然だった。
「あなたの方が濡れてしまいますよ」
 思わず泰子はそう言ってしまった。
「じゃあ、もう少しゆっくり歩いてください」
 そう言って男は微笑んだ。その笑顔には泰子の警戒心を解く魔法がかかっていたのかもしれない。諦めたようにすみませんとつぶやいて、泰子は歩みを緩めた。
 しばらくの間、二人は黙って通行人の間を縫いながら歩いていく。変な質問をされても答えないつもりだったが、男の方は泰子が濡れないようにするのに懸命な様子だ。そんな姿を横目で見ていたら、つい泰子の方から声をかけてしまった。
「家はお近くなんですか?」
「商店街を抜けて、だいぶ歩いたところですよ」
 男は泰子を見ずにそう答える。本当に濡れないようにと気遣ってくれただけだったのかもしれない。男の善意を疑った自分の浅はかさが、泰子の胸の奥でチクチクしはじめた。とうとう商店街のはずれまで来たが、その間、男から身元調査じみた質問は何ひとつされていない。むしろ泰子の方が、沈黙が嫌であれこれ訊ねてしまった。
 もうすぐマンションが見えてくる所まで来た時、ちょっと待ってと声がして、男が急に立ち止まった。「津軽」という名の小さな小料理屋の前だった。以前から気になっていたが、暖簾をくぐる勇気がなくて、いつも通り過ぎていた店だ。
「私はこの店に寄っていきます。この傘は君にあげるから、さしていってください」
 そう言うと男は、無理やり傘を泰子に渡して店の軒先に移った。困りますと言って歩み寄ったが、男はいいからと笑いながら暖簾をくぐる。あっという間に姿は店の中へ消えた。わざわざ中まで追いかけるのも気が引ける。仕方なく泰子は、男の好意に甘えることにした。男ものの傘は、ずっしりと重かった。

 マンションへと歩きながら、泰子の胸に反省の念が湧きあがる。故郷では、当り前のように知らない人が親切にしてくれた。困っている人がいたら、お金だって貸してあげる大人たちをたくさん知っている。いつから自分は、こんなに疑り深くなったのだろう。上京してからの年月が、大事なものを失っていく日々だったようで、泰子は急に哀しくなった。
 いつも歩いている狭い裏通りに、どの部屋にも灯りのついていないマンションが見えてくる。金曜日の夜、他の住人たちはなかなか帰ってこない。住んでいるのが独身者ばかりだからだろう。
 十字路を右に曲がると、マンションの入口が見えた。そこだけが場違いなほど明るい照明で浮き上がって見える。雨に煙るその光景が、いつも以上に物寂しく思えた。このままではいけないと心の中で声がする。ふと、気づいた時が吉日だと教えてくれた祖母の顔が浮かんだ。
 部屋に入ると、泰子はコートを脱いで普段着に着替えた。マフラーを首に巻き、お気に入りのジャンパーを羽織る。時間はまだ六時半を少し過ぎたぐらいだ。次に、玄関ドアののぶに引っ掛けておいた傘を雑巾で拭く。丁寧に巻いて脇に抱えると、傘立てから自分の傘を手にして再び外へ出た。借りた傘を持ち主に返すこと。ちゃんとお礼を言うこと。目的を胸の奥でつぶやきながら、泰子はドアに鍵をかけた。

◇◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇

「まるで夏目漱石だね」
 男はグラスに注がれた日本酒をくいっと飲んだ後、そうつぶやいた。地下鉄が普通に地上を走っていて驚いたと言っていた同僚たちの話をした時だ。ただの笑い話のつもりで話したのに、男は神妙な顔をしながら文豪の名を持ち出した。意外な言葉に驚いた泰子が、どういうことかと質問する。酔いで頬が熱い。狭い小料理屋のカウンター席で、泰子と男は美味い肴を突きながら酒を酌み交わしていた。
「漱石の『三四郎』って小説を読んだことはあるかい?」
 日高達郎と名乗った中年の男は文学に詳しかった。今の仕事は警備会社の事務職らしいが、若い頃には小説家を目指していたという。泰子も聞いたことがある文学賞の新人賞を、あと少しで受賞できるところだったそうだ。
 だが、そんな矢先に結婚したばかりの妻が完治の難しい癌になった。ずっと小説家になる夢を支えてくれた人らしい。互いに身寄りのない夫婦だったため、日高は入院費を稼ぐために就職したのだという。それが小説家への道を諦めさせた。
 その妻も一昨年亡くなり、気がつけば五十歳を過ぎていたと、日高はまるで他人のことのように淡々と語った。
 泰子には、まだ大切な人と死別した経験がない。祖父母も故郷で健在だ。だから日高の胸の内ははっきりとは分からなかった。それでも、痛みは何となくわかる。だからきっと、少しでも自分から引き離したように語らないと辛すぎるのだろう。
 最初は、傘を男に返したら礼を言ってすぐに帰るつもりだった。ところが小料理屋の格子戸を開けたとたん、泰子は女将につかまってしまったのだ。店にはカウンターとテーブルがふたつだけで、席は中年の男たちですっかり埋まっていた。後姿を見ただけでは、誰が傘をくれた中年男か見分けがつかない。どうしようかと躊躇している間に、厨房から出てきた女将に声をかけられたというわけだ。
 泰子と女将が傘の経緯を話している声に、カウンター席に並んでいた中年の男たちが一斉に振り向く。その中に、驚いたような顔で泰子を見つめる日高がいた。早速駆け寄って、脇に抱えていた傘を渡す。丁寧に礼を述べたら、日高は固まったようになって恐縮していた。
「日高さん、若い女の子には優しいのね」
 女将がにやついた顔で日高をからかう。どうやら日高はこの店の常連らしい。周囲の客たちも、次々にひやかしの声をかけた。
「せっかくなんだから、ちょっと寄っていきなさいよ」
 すかさず女将が泰子に声をかける。ちょうど帰ろうとしていた客がいて、日高の隣の席を空けようと客たちが移動した。こっちこっちと、女将の声がする。断れない雰囲気だった。だがそれ以上に、こうした何気ないやり取りが懐かしかった。故郷の人情味あふれる光景と重なって、自然と泰子の脚を止めさせていた。

 勧められた席に座り、日高と互いの自己紹介を終えて、とりあえずのビールを飲んでからは、女将の作る料理が長居させる理由となった。「津軽」という店名だけあって、創作料理ももとになっているのは青森県の郷土料理らしい。故郷の秋田にも通じる味がした。
 泰子も料理を作るのは嫌いではなかったが、自分の腹を満たすためだけに作る気はなかなかわいてこない。最近はコンビニで買った弁当か冷凍食品が増えている。だから、目の前に並んでいくあたたかな料理を口に運ぶのが、なんとも言えず幸せだった。
 酒が入った日高は、先程まで外を歩いていた時とは別人のように饒舌になっている。話しの内容も面白かった。ユーモアとウイット、そして何より聞き上手であること。泰子が今の会社に入社した時、新人研修で言われた営業に必要な要素が、日高にはすべて詰まっている気がした。
 でも日高は事務職なのだという。宝の持ち腐れのような気がして、泰子は率直にそう訊いた。妻に先立たれた独身の身だということが、その時にわかった。一人で生きていくのに、さして収入の多寡は関係ないのだと日高はぼそりとつぶやいた。
 そんなやり取りで一瞬しんみりした時、泰子が話題に出したのが、地下鉄のことだ。ただ場の雰囲気を変えるための話題だったのに、まさか夏目漱石が出て来るとは思わなかったので、泰子は面喰った。
 もちろん夏目漱石の名前は知っていたが、読んだことがあるのは『坊っちゃん』ぐらいだ。『吾輩は猫である』も題名は知っていたが、読んだことはない。ましてや、日高が言っている『三四郎』ときたら、父親が読んでいた漫画のタイトルしか浮かんでこなかった。それを素直に話すと、「それって『1・2の三四郎 』でしょう?」と日高は笑いながら言った。
「ぼくは君のお父さんと同世代なんだなぁ」
 その言葉に、泰子も改めて二人の年の差について思う。会社でいえば部長と同じ年代だろう。そんな年上の男性と気安く飲めている状況に、正直なところ驚いてもいる。
「こんな若いお嬢さんと気安く話せるなんて、思ってもいなかったよ」
 日高にとっても、この状況は意外なことだったらしい。
「日高さんだからじゃないですかね」
 思わずそうつぶやいていた。そしてすぐに変な誤解をされるのではないかと思い、お父さんみたいじゃないですか、と言葉を付け足す。若い時から老けて見えていたからねと、日高は笑ってそれに答えた。
「漱石の『三四郎』のことだけどさ、三四郎は田舎から出てきた時に、どこまで歩いても町並みが途切れなくて、東京が無くならないってことに驚いたんだよ」
 そういうことなのかと泰子は思った。自分にも似たような思いがあったかもしれない。日高が言葉を続ける。
「ぼくは北海道の出身でね、大学に進学して東京に来た時、やっぱり三四郎と同じように思ったんだ。この街は、どこまで行ってもなくならないって」
 秋田生まれの自分と北海道生まれの日高が、偶然この街で出会った。今日の夕方までは見ず知らずの他人で、その上世代も全く違うのに、今はこうして一緒に酒を酌み交わしている。東京に出てきてはじめて、泰子はこの街の奥深さを知った気がした。
「もう小説は書かないんですか?」
 女将が締めにと出してくれたお茶漬けを食べながら、泰子はそう訊ねた。話せば話すほどに、日高の人間味の深さが伝わってくる。小説家とは、こういう人こそがなるべき仕事なのだと、泰子は思うようになっていた。
「気力の問題かな…」
 日高もお茶漬けをすすりながら答える。途切れた言葉の先が見えない。
「亡くなった奥さんのためにも書くべきですよ」
 それでも泰子はこだわった。
「私、日高さんが書く小説、読んでみたいです」
 泰子は本気でそう思っていた。もし日高が若い頃の夢を実現することが出来たら、自分にも何かが出来るかもしれない。そんな思いが泰子の中で膨らみ始めていた。
「今日の事は、書けるかもしれないな」
 泰子の言葉に駆り立てられるように、日高がそう言った。
「若い女性との相合傘なんて、中年を過ぎた男にはなかなか経験できないからね」
 本気なのか冗談なのかは判断できない。だが自分の勧めで、日高が少しでも前向きになれたのだとしたら嬉しかった。泰子はますます早く読んでみたいと思いはじめる。
「新人賞の最終選考まで残った小説って、まだ手元にありますか?」
 高ぶってきた気持ちが、この夜をここで終わらせたくないという思いにさせた。
「まだ未練がましく持ってるよ」
「先にそれを読ませてほしいな。家にお邪魔してもいいですか?」
「これから?」
 日高は驚いた顔で泰子を見た。時計は十一時を過ぎていた。宵の口から飲み始めて、すでに四時間以上が経っている。その時間の長さが、泰子の気持ちを日高に近づけていた。日高は少し考えてから、いいよと答え、茶碗に残った最後の茶漬けをかき込んだ。

 勘定を済ませて外へ出ると、雨は霧雨になっていた。ずっと店の中にいたので、冷たい空気が心地よい。先に店を出た日高が傘をさした。泰子も自分の傘を開こうとしたが、日高の大きなこうもり傘を見たら、面倒になってその下に駆け込んだ。
 四ツ谷駅の周辺は夜が早い。週末だというのに、商店街を歩く人影はほとんどなかった。狭い裏通りを年の離れた男女が相合傘で歩いても、好奇の目で振り向く人はいない。静かだった。酔いが回った足取りでゆっくり歩きながら、たわいもない会話が続く。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して美しい。泰子は不思議な世界を旅しているような気持ちになっていた。
 泰子のマンションが見えてくる。今度は幾つかの窓に灯りがついていた。
「あそこが私の住んでるところです」
 三階の角にある部屋を指さすと、日高は傘を高く持ち上げて、泰子の指先を目で追った。続けて十字路の周囲を見渡す。きっと場所を確認しているのだろう。
「たしか昔は駐車場だったところだね。こんな立派なマンションが建っていたのか」
 見てくれは立派だけど、独身者しか住んでいないワンルームなのだと泰子が言う。
「我が家を見せるのが恥ずかしいなぁ」
 また日高は、冗談なのか本気なのかわからない口調でそう言った。
「驚かないでくれよ。お化けなんて出ないからね」
 どういう意味なのかわからない。そこからはお化け談議になった。子どもの頃に祖母から聞いた秋田の昔話を泰子が話す。
 妖怪の話といえば遠野のある岩手県が有名だが、秋田にもたくさんの伝承が残っている。文学に詳しい日高だけあって、よく知っていた。骸骨のような姿をしていて頭のてっぺんに火を点したからから小僧や、家の生垣を揺すっていくクネ揺すりの話。暗い夜道を、妖怪の話で盛り上がりながら歩くのは愉快だった。
「秋田なら、もみって妖怪のことは知ってる?」
 日高がそう訊ねる。泰子はその妖怪を知らない。なんでも秋田藩の藩士だった人見蕉雨という人が随筆を残していて、もみという妖怪の話はそこに書かれているそうだ。
「阿仁山って山があるでしょう?」
 スキー場で有名な場所だった。学生時代に泰子も何度か行ったことがある。秋田県でも北の方に位置する山だ。
「もみは阿仁山中の草深い所に住んでいて、ヤモリのような姿をしているそうだよ。そして、人の腎水を吸い取るらしい」
「腎水って何ですか? 腎臓かなんかの血液の事? 腎臓だったら、尿の事かなぁ」
 泰子は腎水というのが何なのかわからず質問した。思わず日高が噴き出す。酔いの戯言を真面目な顔で受けとめている泰子がよほど壺にはまったらしい。笑い声が静かな夜道に響いた。
「そうだね、きっとそうだ」
 日高の笑いはなかなか収まらない。泰子はむっとして、ジャンパーのポケットからスマホを取り出した。両手があいているので検索はしやすい。腎水と打ちこんで出てきた説明文を読む。日高の笑う意味が理解できた。ほろ酔いで赤らんだ頬が、より熱くなった。
「若い女性は使わない言葉だよね」
 赤面した泰子をからかうように日高が言う。昔話や妖怪譚には性的な背景のあるものが多い。もみのことも、そんな話のひとつかもしれないと日高は言った。
 そんな話をするうちに、どうやら日高の家に着いたらしい。泰子が暮らしているマンションから十分ほど歩いた所だ。道は一本道で、とても分かりやすい。てっきりアパートだろうと思っていたら、一軒家だった。持ち家かと訊ねると、賃貸だという。確かに病気の妻を支えながら四ツ谷駅周辺で家を持つのは難しいだろう。なんでも、住んでいた高齢の夫婦が亡くなって一度空き家になった家を、会社の常務の紹介で安く借りられたらしい。暗くてよくは見えなかったが、洋館の佇まいだった。壁はかなり老朽化が進んでいる。日高がお化けは出ないと言った理由が、少し分かった気がした。
 玄関は木製の開き戸で、入ってみると中は思った以上に広い。
「ちょっと待っていてもらえるかな。物置部屋の奥にしまい込んであるから」
 日高は入ってすぐのリビングに泰子を残して、廊下の奥にある別の部屋へと入っていった。男のひとり暮らしとは思えないぐらい片付いている。それでも、テーブルの上にふりかけやインスタントコーヒーの瓶が置いてあったり、生活の匂いはしっかりしていた。きっと几帳面な性格なのだろう。
「ポットにお湯が沸いているから、適当にコーヒーでも飲んでいて」
 奥の部屋から日高の声がした。泰子は台所の棚からカップを二つ取り出してテーブルに並べる。インスタントコーヒーをカップに入れ、まず自分の分にお湯を注いだ。
 部屋の照明は白熱灯で暖かな雰囲気だった。アンティークのような椅子に座って、コーヒーを飲みながら改めて部屋を見回す。時計は置かれていない。スマホを見ると、あと少しで午前零時になろうとしていた。考えてみれば長い一日だと泰子は思う。
 父親と同じ世代の、それも夕方出会ったばかりの男性の家を一人で訪れていることが、まるで夢でも見ているように現実味がない。だが、確かに今の状況は現実であり、これから日高の書いた小説を借りて読もうとしている。
 借りて家に帰るか、ここで読ませてもらうか。もし日高が許してくれるなら、このリビングで読んでいきたいと泰子は思い始めていた。日常ではない何かを、ここでなら感じとれる気がした。

「ごめんね、待たせてしまって」
 泰子が一杯目のコーヒーを飲み終えた頃、コピー用紙の束を手にした日高がリビングに戻ってきた。用紙の束はゼムクリップでとめられている。表紙には『蒼い冬』というタイトルが印字されていた。
「真冬の北海道で出会った男女の物語なんだ」
 そう言いながら、日高は泰子の前に小説を置いた。先ほどまで考えていた思いがくちびるからこぼれる。泰子はどうしても、今ここで日高の書いた小説が読みたかった。
「明日は休みだから構わないよ。帰る時は家まで送っていこう」
 そう言うと日高は泰子が飲んでいたカップと、彼女がテーブルの上に用意していた自分用のカップを手に、キッチンの奥へ入っていった。
「お茶菓子も用意するよ。じっくり読んで欲しいから」
 その時、奥の部屋からボーンボーンと午前零時を報せる柱時計の音が聞こえてきた。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 目覚めた瞬間、薄いカーテン越しにさし込む光が部屋の中を満たしていた。一瞬、故郷の家に帰っているのかと泰子は思う。冬の朝、積もった雪に反射した陽射しが、いつも天井まで照らしていた。それに似た状況が、泰子にそう思わせたのだろう。
 だが、そこは見慣れない部屋だった。壁際に置かれたダブルベッドは大きな羽毛の掛布団で覆われている。温もりが心地よい。やがて自分が下着さえつけずに眠っていたことに気づくと、昨夜の記憶が鮮明に蘇えりはじめた。
 日高が書いた小説を読んだ。あまり小説を読んでこなかった泰子でも、夢中になって読み進めるほど、活き活きとして瑞々しい文章だった。北の大地で偶然に出会った若い男女が、摩周湖まで一緒に旅をする物語だ。
 女は生きづらい日常を逃れ、男は夢を探しに北海道を訪れている。そこに、もとは炭鉱夫だったという老人が絡み、自分探しのストーリーになっていた。なぜ新人賞を受賞できなかったのかが理解できない程、心にしみる物語だった。
「絶対に書くべきです。日高さんには才能がありますよ」
 小説を読み終えた泰子は、泣きながらそう訴えていた。
「書きたい事は、すべてそこに書いてしまった気がするんだ」
 何杯目かのコーヒーを泰子の前に置き、日高はそうつぶやく。妻に先立たれた男の孤独が伝わってきた。警備会社の事務員として働き続け、会社帰りに行きつけの小料理屋で酒を飲む。帰る家は、時間の狭間に取り残されたような古い家だ。
 それでも、雨に降られて困っている若い女性に自分の傘をさし掛ける温かさがある。一緒に酒を飲めば、面白い話題で相手に時間を忘れさせる程の知識も教養もあふれている。泰子は日高がこの家のように朽ち果てていくのを待っているだけなのが許せなかった。
 そこからとっさにとった行動は、泰子自身にもよく理解できない。日高を元気づけたいという一心だった気はする。コーヒーカップを置いた日高の腕を手繰り寄せ、胸の中に飛び込んでいた。中年だが痩せた身体だ。お腹が出ている父親とは違う。胸に頬を押しつけると、早鐘のような心臓の鼓動が聞こえた。
「まだ酔っぱらってるな」
 それでも日高は理性を失わない。そっと泰子の肩に手を置き、やんわりと距離をとろうとする。ちょっと気を許しただけで下心を表す男たちとは違うことが、それだけでもわかった。
「どうすれば書けますか?」
 泰子は背中にまわした腕に力を込めて、必死にしがみついた。ここで力を緩めたら、夢から覚めてしまう気がした。
「書く気力がないんだ。何度も試してみたんだけどね」
 日高の声が時計のない部屋に響く。気力という言葉に、自分自身の日常が重なった。東京という広い街で一人暮らしを続けていると、確かに気力は失われていくのかもしれない。だが、そんな街で二人は出会うことが出来たのだ。
 東京で暮らす五年間で、何人かの男とつき合いはした。ほとんどは相手から言い寄られたケースだ。すぐに結婚したいと言いだした男もいたが、そんな気にはなれなかった。ベタベタした関係は性に合わない。だが、男たちは松やにか何かのようにベタベタとまとわりつく。つき合うほどに、つまらなくなった。
 見た目はただの冴えない中年男なのに、日高には奥深い魅力がある。わずかな間に、自分でも驚くほど日高に魅かれていた。出会った事に意味があるという思いがする。もしそれが間違いでも、後悔しないと思えた。
 胸から頬を離し、椅子に座ったまま見上げると、じっと泰子を見つめる日高と目が合った。眼がしらに薄っすらと涙がにじんでいる。小説家を目指しながら、物語を綴り終える気力を失った男の哀しみを、そこに見た気がした。
 一度緩めた両腕に再び力をこめながら、泰子は椅子から立ち上がる。顔の位置が日高と並んでいく。目を閉じながら、そっとくちびるを重ねた。閉じられていた日高のくちびるが、ためらいがちに開く。腕が泰子の背中にまわされ、やがて右手が髪を撫でた。
 どれぐらいそうしていただろう。少し身体を引きながら、日高の大きな両手が泰子の頬をやさしく包んだ。大切なものを手にしながら愛でるように、その目には愛しさが宿っている。
「君が店に入ってきた時、傘を見るまで誰だかわからなかった」
 日高の親指が、泰子の眼の下を優しく撫ではじめた。心地よさが全身に広がっていく。頬に感じる指の一本一本が、物語を紡いでいくのだと思うだけで、身体の奥からこみ上げてくるものがあった。
「君だと気づいた時、思ったんだ。こんな人がそばにいてくれたら、もう一度書けるんじゃないかと」
 日高の声は、高ぶるでもなく、とても落ち着いていた。低い声が、静かに泰子の胸に響いてくる。
「でも、ぼくみたいなおじさんに、そんな資格はないから…」
 当然だと思えた。泰子もはじめは、日高をただの中年男としか思っていなかったのだから。どんな魔法が働いたのか、それは泰子自身にもわからない。ただ、傍にいたいという思いだけが、真実として心の奥にある。それだけで十分だと泰子は思った。

 朝が来て、街は雪景色に覆われている。天気予報どおり、未明から雪が降っていた。まだ雪はやんでいない。衣服はサイドテーブルの上に丁寧にたたまれていた。きっと日高がそうしてくれたのだろう。手早く服を着ると、カーテンを開けて外を見た。二階の窓からは表通りが見える。雪のせいで車は少ない。ふと、日高はどこにいるのかと泰子は思った。昨夜の余韻が戻ってくる。部屋の壁際に置かれたベッドで日高に抱かれた。
「君は阿仁山中から来たもみじゃないよね」
 濃密な時間を前にした照れ隠しなのか、一緒にベッドへ入った時、日高はこの家までの道行きで話した妖怪の話を持ちだした。男の腎水を吸い取るというヤモリに似た妖怪の話。確かに自分は日高の腎水に触れた。いつかは身体の奥でそれを受け止めるかもしれない。その時自分は、この家のヤモリになるのだと泰子は思った。
 深い充足感に今も満たされていると感じる。こんな思いがするのは、はじめての経験だった。抱かれている間、何度も幸せだとつぶやいたと思う。その度に、日高のキスは長く熱くなった。
「相合傘で歩いた時から、ぼくはずっと幸せだったよ」
 若い男が言ったら笑ってしまうような言葉でも、日高が言うと気障には聞こえない。男は見てくれではないのだと改めて泰子は思った。
 階段を降りていくと、リビングからカチカチとキーボードを叩く音が響いていた。雪の日は静かだ。家の中もひっそりと静まり返っている。その中で、カチカチという音だけが、鳴りやまずに続いている。きっと日高は小説を書きはじめたのだろう。ベタベタしない距離感が、とても愛おしかった。
 とっさに泰子は邪魔をしたくないと思って階段に腰をおろす。雪の朝、物語を紡ぐ男の家で、静かに耳を傾ける。完成した小説を一番に読むのは自分なのだと泰子は思った。
 階段の踊り場には小さな出窓がある。泰子は音をたてないようにそっと窓に近づいた。結露で曇ったガラス窓に、子どもの頃によく見かけた相合傘を指で描いてみる。年の差なんて関係ない。雨が降ろうと雪が降ろうと、これからはずっと相合傘で歩いて行こう。
 そう思った矢先に、窓の外でドスンと音がした。思わず声をあげてしまう。何も驚くことではない。積もった雪が屋根から落ちたのだろう。だがキーボードを叩く音がやみ、階段へと歩いてくる足音が聞こえてきた。
 泰子は大急ぎで描いた相合傘を手のひらで消す。見られるのが気恥ずかしかった。その時になって、自分も相合傘で歩いている時から幸せだったのだと泰子は気づいた。

※作中に登場する「津軽」というお店は、四ツ谷ではなく小田急沿線の渋沢に実在するお店なのですが、ふと幾つもの記憶の回路が繋がって、こんな物語になりました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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