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風呂上がりのアポロン [短編小説]

 あんな人間にだけはなりたくない。子どもの頃から詩穂の身辺には、そんな風に思う大人が多かった。
 だが、嫌いな人物が現れた時に思う「あんな風にはなりたくない」という思考こそが、とても危険なことだと、ネットで知り合った絵師の男から言われたことがある。確かに、嫌だと思い描いていたマイナスのイメージが実際に起きてしまうことは多い。子どもの頃から、起きてほしくない事に限って思った通りの悪い結果になってきたのを詩穂はその時に思い出した。
「イメージっていうのはね、必ず絶対値がついてるものなんだ。プラスもマイナスもなくて、案外単純に思い描いたものになってしまうものなんだよ」
 絵師の男は、それがさも宇宙の真理であるかのように語っていた。その時は、ふーんと思った程度だったが、今では心から信じている。きっと宇宙の法則のひとつ。ずっと家に引き籠もっていた詩穂がイラストレーターの道を目指した理由のひとつでもあった。
 なりたくない自分ではなく、なりたい自分の姿を思い描く。
 それは簡単なようでいて意外と難しい。だから目標にしたいと思う人を探した。一人の画家を好きになった。イラストレーターではないけれど、カッコいい女性の画家だ。自らを"落書き作家″と呼んでいる。その人がライブペイントをしている姿に魅かれた。
 その画家のインタビュー記事を読んでいたら、はじめは彼女も物事を「成功」「失敗」という基準で捉えていたのだという。だから、なりたくないイメージを思い描きがちだったそうだ。だが、それをやめてから世界が変わった。単なる憧れだけではなく、彼女の考えに共感できたことが、その後の詩穂にとって大きな支えになった。
 詩穂は、しっかり絵を学んだことがない。だから絵が好きでも画家にはなれないと諦めていた。しかし、その女性の画家も美大は出ていない。それでも、人の心を揺さぶる絵を描いている。勇気が湧いた。今、その画家の絵はオークションで何百万円もの値がついているのだ。
 やるからには自分も必ず。誰にも言わなかったが、詩穂は固い決意をして絵を描き始めた。沢渡亮介と出会ったのはそんな時期だった。

 沢渡は小説家だ。詩穂より五歳年上で、バツイチだという。大学には行っていない。高校を卒業して、地元の小さな工場に勤めたそうだが長続きはしなかった。そのうち、八歳も年上の女性と暮らすようになり、成り行きで籍を入れた。つまり、法律に則ったヒモになったわけだ。
 それだけ聞いていると、いかにも最低な男の部類に入るのだが、沢渡には才能があった。年上の奥さんが働きながら食わせてくれる。その環境が、沢渡の才能が開花するチャンスを作ったのだろう。最初に書いた作品がライトノベルの文学賞で優秀賞を受賞した。それがきっかけで、今はそこそこ名の知れた作家になっている。
 だが、小説で食えるようになった途端、沢渡はその年上の奥さんと離婚した。ずっと生活を支えてくれた配偶者を、売れた途端に捨ててしまう。よく聞く話だと詩穂は思った。好きなミュージシャンにも同じことをしている人がいる。だから作家とか画家とか音楽家の男という輩は、大なり小なりそんなものだという思いがあった。
 離婚して再び自由の身になった沢渡は、その後再婚することもなく、今は独身貴族を謳歌している。食えない作家はごまんといるが、食える作家は限られた存在だ。食える作家の沢渡は女好きで有名な中堅作家になっていた。
「俺の小説の装丁を描いてみない?」
 最初、詩穂は彼からそう誘われた。ちょうど他の作品が映画化された直後の書き下ろしだということで、それなりに注目を集めている小説だという。装丁などにも作家の希望が通りそうな状態なのだそうだ。まだ、実際に会うようになって間もない頃だった。
「俺さ、詩穂の絵って好きなんだよね」
 その頃の詩穂は、まだネットに作品をアップしているだけの素人だ。沢渡の言葉をにわかには信じられないという気持ちもあったが、それ以上に嬉しさが勝った。
「原稿、PDFで送るからさ。それ読んで湧いたイメージを自由に幾つか描いてみてよ」
 ラブホテルで慌ただしい情事を終えた後、沢渡はそう言って帰った。アイドルにしてやると言って若い女の子を騙す自称プロデューサーといった連中のやり口に近い。大昔から繰り返されてきた物々交換。名も金もない女の子が差しだせるものは若い身体しかないのだ。 
 そのまま連絡が途絶えれば、週刊誌の片隅に載るような世間知らずな女の体験談で終わったかもしれない。だが沢渡は約束通りちゃんと原稿をメールしてきた。
 読み始めて、すっかり詩穂は物語にはまってしまった。面白かった。二人が実際に会うようになってから、詩穂とメッセージでやり取りしていた話題が随所に出てくる。
「詩穂は俺の新しいミューズなんだ」
 ベッドの中で沢渡がつぶやいていた言葉が胸によみがえる。誰にでもそう言っているのだろう。そう思った。機嫌を損ねないように感じているふりをするのが精一杯で、気もそぞろに聞いていた言葉ではあったが、案外本音を漏らしていたのかもしれない。詩穂はカチッと何か留め金のようなものがはずれた気がした。

「すごくいいじゃない」
 詩穂が描いていったイラストを沢渡はとても気に入った。同席した編集者に見せながら興奮している。最初に描いた一枚はメールで画像を送ったが、その後に描いたものはちゃんとプリントして見せることにした。最初の絵で好感触を抱いた沢渡は、その日、詩穂と待ち合わせのカフェに担当の編集者を呼んでいたのだ。
「中川ちゃん、この子の絵、いいだろう?」
「そうですね。正直、驚きました」
 沢渡からちゃんづけで気安く呼ばれている中川という編集者は、本当に驚いている様子だった。
「装丁にするなら、この絵でしょうね」
 中川が選んだ絵を眼前に近づけて沢渡がまじまじと見つめる。しばらく周囲に沈黙が漂った。
「やっぱりそうだよなぁ」
 止めていた息を一気に吐き出すように、沢渡がそう言った。中川が頷く。詩穂はやっと息を吸い込めた気がした。
「どれも良くて悩んじゃうけど、一枚選ぶとしたらこれだろうな」
 そう言いながら沢渡はテーブルの上に絵を置いた。自分でも手応えの確かだったものなので、詩穂は安堵する。
「主人公の女性の雰囲気が良く描けてますよ」
 中川は詩穂の目を真っ直ぐに見つめながらそう言った。続けて、申し遅れましたと言いながら名刺を出した。有名出版社の編集部にいると、警戒心も強くなるらしい。もし詩穂の絵が大したものでなければ、名刺など渡さずに帰ろうと思っていたそうだ。
「沢渡先生の酔狂かと思いましたが、あなたは本物ですね。良かったです」
 中川はそう言って笑った。
 本物という言葉が、一瞬詩穂の心を鷲掴みにする。
「じゃあ、これで決まりだね」
 沢渡は、もう絵から興味が薄れたらしく、詩穂を連れて出かけたいと思っているようだ。向かいに座っている詩穂の脚に、つま先でちょっかいを出してくる。詩穂は顔が赤くなった。
「まあ、もう一度社内で会議にかけなくてはなりませんが、おそらく大丈夫でしょう」
 沢渡の様子に気づいているのか、中川もさっさと社に戻ろうと考えている様子だ。
「この原画をお借りしてもいいですか? あと、帰宅されたらデータも送ってください」
「データって、どこに送れば…」
「ぼくの名刺のアドレスに」
 日頃、名刺などもらい慣れていない詩穂は、馬鹿な質問をしたと気づき、余計に赤くなった。
「これを機会に、今後もお付き合いさせてください」
 中川はそう言って握手を求めてきた。お付き合いの意味が恋人ではなく仕事の事を意味するということにすぐピンとこなかった詩穂は、恥ずかしさでまた一段と頬を紅潮させながら、中川の分厚めな手のひらを握った。

 思えば、あの日から何もかもが変わったと言える。沢渡との関係はそれから一年ほどで徐々に消滅していったが、中川との仕事の関係は深まっていった。ライトノベルのジャンルだけではない。やがて名のある文学賞を受賞した作家の文庫本などでも装丁を手掛けられるようになった。
 中川は沢渡のように、詩穂に対価となる身体を求めたりはしない。純粋に詩穂の才能を買っている。それが詩穂は嬉しかった。実家を出ようと思ったのも、中川のアドバイスがあったからに他ならない。ずっと引き籠もっていた実家から、新しい環境に踏み出すこと。アパートやマンションでのひとり暮らしでは引きこもり体質を変えられないと思い、嫌でも人と関わることになるシェアハウスにした。

 そのシェアハウスは小田急線の豪徳寺駅に近い一軒家だ。オーナーの長男と長女が暮らしており、そこに詩穂を含めた女性3人が加わった5人の共同生活になっている。長男の広瀬孝夫は四十歳を過ぎた独身男性でカメラマンだ。中川と大学の同期生だという。その繋がりで紹介してもらった。
 少し変わり者だが、孝夫は心根の優しい人だった。類は友を呼ぶと言うとおり雰囲気がどことなく中川に似ている。見た目も似ている印象で、外見的にはあまりイケてはいない。古びたクマのぬいぐるみのような風貌だ。有名な賞もとっているプロのカメラマンで、それこそ中川が編集を担当した写真集も出していた。
 孝夫はある日突然ぷらりと旅へ出てしまう。そして一度出かけるとなかなか帰ってこない。気に入った風景の写真が撮れるまで。それが孝夫のルールらしい。だから撮れれば報せもなく帰ってくる。その度に皆を驚かせた。
 孝夫が帰って二、三日すると中川がシェアハウスを訪ねてくる。孝夫の姉である靖枝が、とびっきりのご馳走で中川をもてなす。日頃から面倒見の良い靖枝は、他の住人たちからも姉さんと呼ばれていた。自分より人の事ばかり考えている。昔からそうだったと、詩穂は中川から教えてもらった。
 詩穂にとって靖枝は十歳以上年上のバツイチということもあるが、とても頼りになる女性だ。シェアハウスなのに寮母のような存在だと言ってもいいかもしれない。スピリチャルなことに興味があり、神仏や言い伝えから迷信まがいのことまで信じているような、ちょっとユニークな人だ。
 詩穂と同様に猫好きで、ソラという名のマンチカンを飼っている。だが、主に面倒をみているのは詩穂だった。あまり懐いてくれないソラへの寂しさを埋めるように、靖枝は招き猫にはまっている。以前、豪徳寺で買った招き猫を玄関に置いたら、たて続けに入居者が決まったことがきっかけだった。確かにその時期に他の二人も入居している。二人とも詩穂より年上だった。
 何の縁もなかった人と人が結ばれていく不思議さ。沢渡と出会い、中川と出会い、シェアハウスの人たちと出会った。沢渡との関係は薄らいでも、そこを起点にしたものが拡がり続けている。出会いと別れ。いつか、再び自分はこの場から別れていくのだろうか。そんなことを考えるうちに、やがて出会いと別れは詩穂が描く作品のテーマになっていった。
 中川は沢渡と詩穂に男女の関係があった事に気づいているだろう。だが、それについて訊かれたことは一度もない。詩穂にとって恋愛のゴールは間違いなく結婚なのだが、沢渡との時は、はじめからそれを望まなかった。当時は曖昧だったが、胸に抱きはじめていた夢を叶えるための手段であったのだと今は思っている。
 だから沢渡に感謝の気持ちこそあれ、飽きて棄てられたという恨みは微塵もなかった。ギブアンドテイクとしては、当初に考えたこと以上のものを手にしている。それでも、やはり傷は残っていた。もう二度と女を武器にはしない。そう思えるようになったのも、中川がいてくれたからだろう。いつしか詩穂はそう思うようになっていた。
 しかし、詩穂にとって中川は、もっと大事な存在だったのだ。それに気づくのがあまりにも遅かったと後悔しても、もう過去に戻ることは出来ない。それどころか、その出来事は日々の暮らしそのものを変えてしまうほどインパクトのあることだった。

 中川と靖枝が結婚する。九月に入ったばかりの日曜日、そのニュースは急に皆に告げられた。他の住人たちは勘づいていたようで、全く寝耳に水だったのは詩穂だけだった。
「靖枝さん、結婚したらシェアハウス出て行っちゃうんだろうね」
 そんな会話が耳に飛び込んでくる。靖枝がいない家を想像してみても、詩穂はピンとこなかった。何かが決定的に欠けてしまう気がして不安になる。それは単にシェアハウスのことだけではなく、中川との関係にも言えた。ただ何となく、詩穂は中川から依頼されている仕事を早く片付けなければと思う。それだけが今出来る確かな事に思えた。

◇◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 その旅行は十一月の文化の日を挟んだ二泊三日で組まれた。シェアハウスの住人である水島ひかりが企画したものだ。靖枝の再婚と新たな同居人となる中川を歓迎する意図で、ひかりの故郷である伊豆に、シェアハウスの住人一同で旅行することになったのである。
 嫁に行ってしまうと思っていた靖枝がシェアハウスに残ると発表したのがハロウィンパーティの夜だった。皆が喜んだのは言うまでもない。ただ詩穂だけは、嬉しさと同時に複雑な気持ちを噛みしめていた。何が気持ちを複雑にさせているかを真正面から分析するのは嫌だったから、手近な理由で少しごねてみせる。
 ひかりは自分の彼氏も旅行に同行させようとしていた。ハロウィンパーティにも同席していたから初対面ではない。だが、旅行に同行するとなると、どうしても二組のカップルの婚前旅行としての色合いが強くなる。独り者にとっては、寂しさを再確認するものになる可能性が高かった。
 もちろん、企画したひかりに悪気がないのは分かっているのだが、どうせまた歓迎会はシェアハウスでやるのだから、仕事を抱えている自分が行かなくても良いだろうと旅行の話題が出るたびに言ってしまったのだ。
 ひかりはその都度、詩穂を説得していたが、とうとう彼氏を旅行には連れて行かないと言い出した。そうなると、今度は詩穂が目覚めが悪い。結局、すったもんだを経たうえで、当初の予定通りのメンバーでの旅行になった。

 まず小田急線で新宿まで行き、そのままロマンスカーで小田原に向かう。小田原からは踊り子号に乗り換えた。やがて伊豆半島に入ると、右側の窓からは紅葉した山が見え、左側には海が広がっている。天候も観光にはもってこいの秋日和だった。
 電車の車両は平日だというのに混んでいた。乗客の年齢層が高く感じる。定年を迎えた夫婦や子育てを終えた主婦たちが友人と連れだって小旅行を楽しんでいる様子だった。
 残念ながらミカン狩りのシーズンは終わってしまったらしい。海水浴の季節でもないから旅の目的としては中途半端な印象もあるが、近場で自然を感じられる場所として人気があるのだろう。伊東駅を過ぎて伊豆急行に乗り入れれば、目的地の伊豆稲取まではあっという間だった。
「絵の勉強になると思うよ」
 ひかりにそう言われて、窓際に座らせてもらった詩穂はずっと海を眺めた。言われる通り、海は絵の勉強になる。ひと時も同じ表情ではない。光と影が作り出す海の表情を追いかけながら、詩穂の心も同じように変化していた。ひと時も同じではいられない。とにかく落ち着かなかった。
 前方の席には、中川と靖枝が並んで座っている。その向かいには、座席を反転させて座るひかりと彼氏がいた。その次に、孝夫ともう一人の住人である大村文乃が隣りあって座っている。詩穂だけが一人で二人掛けの席を独占していた。だがそれはむしろ将来の孤独を暗示しているようでしかない。
 ただ眺めていても仕方ないと、詩穂はクロッキー帳を取り出し、スケッチを始めた。これも中川の勧めで始めたことだ。作品を描くのはパソコンだが、自分の手でも絵を描くようにした方が良いと言われたのだ。美大はもちろん絵のスクールに通った事もない詩穂だったが、見よう見まねでやりはじめたデッサンの絵も当初より格段に上達している。そんなことを思いながら、また中川の事を考えていると気づき、詩穂は激しく動かしていた手を止めた。海はすぐに表情を変えてしまう。視線を沖の彼方に見える伊豆大島に向けた。詩穂は動かないものが恋しくなった。

 伊豆稲取に着いて、まず一行は旅館に立ち寄った。百年以上の歴史がある老舗の旅館らしい。古びた外観をイメージしていたが、最近リニューアルされたらしくやけに都会風だった。
 それでも中に入ると、老舗の雰囲気は残されている。恰幅の良い女将が迎えてくれて、それぞれが部屋に案内された。踊り子号の座席とほとんど同じ部屋割りで、唯一の違いは一人部屋になったのが孝夫だという点だけだ。
 詩穂は文乃と二人で真新しい白壁の洋室の部屋に通された。そこからも海が一望できる。風が強くなってきたのか、海面は白波で覆われていた。
「どうせなら和室が良かったなぁ」
 文乃が残念そうに言った。彼女なら当然そうだろうと詩穂も思った。
 文乃は昨年の夏にそれまで暮らしていた古い実家を売却して引っ越して来たOLだ。都心の一戸建てを売却したお金持ちなのだから、もっと勤め先に近い高級なマンションで暮らすこともできるだろうに、なぜか今の生活が気に入っているらしい。シェアハウスで選んだのも畳のある和室だった。
 阪神・淡路の大震災で両親を亡くしてから、ずっと祖母との二人暮らしだったという。だから、まるで家族が増えたようで嬉しいのだそうだ。詩穂にもその気持ちは、なんとなく理解できた。
 他の二組も洋室らしいから、部屋を変える事も出来ない。やはり客が老舗の旅館に求めているのは和室の雰囲気なのだろう。そちらは予約の時点から満室だったようだ。孝夫の部屋だけが山寄りの別館で和室らしい。
「私は孝夫さんと一緒でもいいですけどね。襲われたりはしないだろうし」
 詩穂はそう冗談交じりに言った。文乃は一瞬目を輝かせたが、すぐに諦めたように首を振る。そして、やっぱり海が見える部屋がいいと言った。
「文乃さんはつき合ってる人っているんですよね?」
 普段から仲は良いのだが、文乃とは恋愛事情について語ったことがなかった。旅に出るとやはり気持ちが解放されるのだろう。詩穂は何となく文乃に聞いてみたくなったのだ。
「つき合ってるっていうのかな? 大事に思っている人はいるけど」
「どんな人なんですか?」
「旅行雑誌のライターさん。でも、やっぱりつき合ってるって言うのとは違うかな」
 そう言って文乃は口を閉ざした。遠くを見つめている。その人の事を考えているのだと察した詩穂は、またバッグからクロッキー帳を取り出した。
「ちょっと周りを探検してきますね」
「温泉入らないの? 6時になったらロビーに集合だよ」
 文乃がちょっと申し訳なさそうな顔で詩穂を見つめている。ちゃんと答えなかったことを気にしているのだろうと詩穂は思った。
「夜はひかりさんの実家にお邪魔するんですよね。了解してますよ」
 詩穂は少しおどけて見せた。この伊豆旅行で何かを考えさせられているのは自分だけでない。文乃の様子からそう感じたからだ。
 二組のカップルがいる。それぞれに出会いと別れを繰り返し、今結婚という選択をしようとしている四人の男女。その中の一人に、自分はいつしか特別な感情を持っていたのだと気づいてしまった。永遠に気づかなければ苦しまなくて済んだことなのに。そう思っても言葉にしがたい悔いが目の前の海と同様に波となって押し寄せてくる。
「このまま集合場所に行きますから、部屋の鍵閉めちゃってください」
 貴重品を入れた小さなポーチとクロッキー帳を持ち、詩穂は逃げるように部屋から出た。中川とは旅行の間に進行中の企画の打ち合わせをする必要があった。多忙な中川が今回の旅に同行するには、会社への言い訳として仕事を理由にするのも一助となったはずだ。
 打ち合わせといってもそんなに切羽詰まったものではない。帰ってからラフの一、二枚も描ければ順当だった。それなのに、この追い詰められた気分はなぜなのだろうかと詩穂は思う。やはり混乱しているのだろうか。詩穂は、温泉に浸かるより、鉛筆を動かしている方が落ち着ける気がした。

 集合までには二時間あった。外の階段に手ごろな場所を見つけて風景を描いてみたが、どうも時間が経つのが遅く感じる。詩穂は急に人が描きたくなった。やがて目の前の光景の中に掃除をしている男を見つけたので、その姿をスケッチし始めていた。旅館に雇われている男だろう。遠目に見ても年の頃は同年代だった。
 しばらくして男は掃除を終えたらしい。ポケットから煙草を取り出し、吸い始めた。その姿が魅力的に見えたので、詩穂は激しく手を動かす。線が紙の上に煙草を燻らす男の姿を形作っていった。
「さっきから何してんの?」
 急に男の声がする。描いていた男の視線が詩穂に注がれていた。真っ直ぐに近づいてくる。詩穂は悪戯を見つかった子どものような気持ちになった。
「へえーあんた絵が上手いんだね」
 ついにクロッキー帳を覗き込んだ男は、驚いた顔をして詩穂を見た。
「何よ、美大生か何か?」
 男はそう言って詩穂の後ろに座った。階段の段差があるから、描いている様子を見ることが出来る。手を止めて振り向くと、男は上を指さした。
「屋上に行くと、露天風呂も見えるよ。ヌードでも描けるけど」
 そう男は真顔で言った。詩穂が、それじゃあ覗きだと言ったら、女が女湯を覗いても覗きで捕まるのかと言う。一瞬、言葉に詰まった。
「そんな事言って、あなたが覗き魔なんじゃない?」
 苦し紛れにそう言ったら、男が我慢できずに噴き出した。
「あんたこそ無許可で俺を描いてたじゃないか」
 その言葉に詩穂も笑ってしまう。急に空気が和んだ。
「ひとりで来てんの?」
 男は煙草の煙を吐くタイミングでそう訊いた。周囲に煙草を吸う人間がいないからか、新鮮な気持ちがする。
「ひとりじゃないよ。シェアハウスの同居人たちと一緒」
 初対面の相手なのに、誤魔化す気にはならなかった。男が一瞬、驚いたような顔をする。その表情の理由が何なのか、詩穂は少し気になった。
「最近はシェアハウスってのが流行ってるのかい?」
「流行ってるわけじゃないと思うけど…」
 思ってもいなかった質問なので、どう答えていいものか正直詩穂は困って言葉を濁す。
「俺の知り合いがさ、シェアハウスで暮らしてんだよね。東京でさ。他人と暮らすんだろ? 風呂あがりとか、裸で歩き回ったりできねぇじゃん」
 男はそう言いながら煙草を階段の端っこにこすりつけて消すと、ポケットから携帯灰皿を出して吸殻を放り込んだ。
「風呂あがりにすぐ服を着なきゃならないなんて、俺なら我慢できないけどなぁ」
 言葉とともに立ち上がった男は、まさに風呂あがりだとでも言うように、ボディビルダーのようなポーズをとった。シャツの袖からのぞいた腕の筋肉に、一瞬目を奪われ、詩穂は慌ててクロッキー帳に視線を戻す。男の裸体を描きたいという欲求がこみ上げてきているのを詩穂は感じていた。
「そうだ、まだ名前訊いてなかったな。俺は光が明るいの明と書いてアキラ。Uターン就職した28歳独身。よろしく」
 男が先に自分の名前を名乗る。なぜどや顔をするのか理解に苦しんだが、印象は悪くない。二歳年上ということは水島ひかりと同い年なのだと思った。その途端、詩穂は急に集合時間を思い出す。時計代わりのスマホを見ると、5分前になっていた。
「やばい、ごめんなさい。私、行かなくちゃ」
 男は一瞬、名残惜しそうな表情をした。その瞬間、詩穂はまた胸がドキンと音をたてた気がする。
「用事が終わったらさ、連絡くれない」
 男も上着のポケットからスマホを出した。ラインの画面を見せてくる。
「二泊三日の予定だから」
 詩穂はポーチとクロッキー帳を手に、ロビーを目指して走り出した。慌てることはないのだと心でつぶやく。出会いは些細な事がきっかけで誰にでも訪れるという実感があった。そして、出会いがあれば別れもある。
 途中で振り向くと、階段の上から明と名乗った男が手を振っていた。
「私は言偏にお寺のシと稲穂のホでシホ。またね」
 男が頭上にあげた腕で大きな丸を作った。この男も出会いと別れを繰り返してきたのだろう。そして今、お互いの道の一番突端で、二人が出会った。詩穂の胸に幾つも絵のイメージが浮かんだ。
「詩穂は俺の新しいミューズなんだ」
 以前、沢渡に言われた言葉がふいに蘇ってきた。男の作家のほとんどが、いつもミューズを求めている。ずっと訝しく思ってきたけれど、女である自分も似たようなものなのだと詩穂は思った。
 言葉にならない感覚だが、今、確かに心の変化を感じている。実際、先程描いた絵も、明が驚いた以上に描いた詩穂自身が驚いていた。まるで魔法がかかったように、線が人物を描き出している。何が起きたのか、詩穂にも全く分からなかった。
 女にとっては、芸術の女神であるミューズを求めているとは言わないのかもしれない。ギリシャ神話に登場する男の神で、芸術に関わっていたのは誰だったろうと詩穂は考えた。ゼウスでもないし、ポセイドンでもない。
 記憶の中を引っ掻き回しているうちに、ひとつの名前が浮かんだ。光明神アポロン。光が明るいと自分の名前を紹介した男のどや顔をした神の姿をイメージした。詩穂は急ぎ足で歩きながら、そんな自分のお粗末なイメージ力に笑いがこみ上げてくる。
(本当にアポロンかどうか、この旅行中に見極めてやろう)
 詩穂はいつの間にか立ち止まって、クロッキー帳に描いた男の姿を眺めていた。ポーチの中で、スマホが激しく震えている。慌てて取り出すと、集合時間を過ぎた時間表示が見えた。再び駆けだしてロビーに向かう。外に出ていてくれればいいのにと思っていたら、ちょうど玄関から出てくる一行が見えた。向こうも詩穂を見つけて手を振っている。急に、出会いも別れも手を振る気持ちが大事なのだという思いがした。
 詩穂は立ち止まって思いきり手を振った。中川と靖枝も手を振っている。
「いつまでも手なんか振ってないで、走って来なさいよ」
 とうとうひかりが半分怒ったような口調で叫んだ。そう言いながら自分も手を振り続けている。隣で彼氏が笑っていた。気づけば全員が笑っている。
やっぱり旅行に来て良かった。詩穂はその思いを噛みしめるようにゆっくりと呼吸を整え、みんなの方に歩きはじめた。


※ずいぶん間があきましたが、『シェアハウス豪徳寺・猫家』シリーズの二作目です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
一作目はこちら↓をどうぞ。


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