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西行と反魂の絵師① [連載時代小説]

 穏やかな春の風が枕もとを吹き抜けていく。草庵の濡れ縁に面した障子戸は開かれ、軒先にはもうすぐ満開を迎えるであろう桜の老木が枝を揺らしていた。重い病の床にあった西行の脳裏には、通り過ぎた過去の光景が春霞のように浮かんでは消えていく。
 この世に生を受けて七十二年。かつては北面の武士として武勇に秀で、和歌にも通じ、華やかな未来が約束されていた。それにもかかわらず二十二歳の若さで出家したのは、皇位をめぐる政争に失望したからでもあり、親友の不意の死に世の無常を感じたからでもある。以来、五十年。思いかえせば旅から旅の人生だった。

「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃」
 ふと渇いた唇から昔詠んだ歌がこぼれ出た。そうだったと、また遠い過去を懐かしむ。できることなら、桜の花の下で死にたいという願いは、間もなくかなえられようとしていた。
 それでも、わずかだが心の揺らぎが呼吸を乱す。もうとうに死ぬ覚悟はできていると思っていながらも、やはり未知なる涅槃への憧れだけで心が安らかになれるとはいえない。ひたひたと忍び寄る死への怖れが微塵もないかといえば噓になる。ひとつ大きく息を吸った西行は、その息を静かに吐きながら、またしばらく浅い眠りについた。

 どれぐらいの時間が過ぎただろう。西行は人の気配で目を覚ました。重いまぶたを開くと、枕元に座っている男の顔が見える。いつも世話をしてくれている下男ではなかった。
「お目覚めでございますか」
 見知らぬ男は静かに言葉を発した。不思議なことに、どこか聞き覚えのある声だった。
「どちら様かな?」
 しばし呼吸を整えてから、西行はまじまじと男の顔を見つめながら訊ねた。日ごろから草庵に出入りしている者は、片手で数えるほどしかいない。まったく臆することのない態度を見て、そういった者たちの縁者かとも思ったが、男はその中の誰とも似てはいなかった。
「たいへんにご無沙汰しておりました。真人でございます」
「真人…?」
 真人といえは、老荘の思想や道教において人間の理想像とされる存在のことである。また大仰な名をつけたものだと、思わず笑みがこぼれたその時、男は静かに短歌を誦した。
「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
 この歌は……突然、西行の動悸が激しくなった。胸の奥のどこかで、遠い過去に封印していた禁忌の箱が壊れ、記憶があふれだしてくる。雨に濡れて佇む異形の者の面影が、目の前にいる男の痩せた顔に重なっていった。

「まさかそなた…土塊に還ってはいなかったのか…」
 その瞬間、男はハッとするほどの笑顔を西行に向けてうなづいた。
「まだ私はあの桜を見つけられておりませんので」
「あの桜?」
 西行は男の言葉を噛みしめるように繰り返した。深い沼の底に沈んでいるひどく曖昧な記憶を取り戻そうと、ささやかなきっかけの糸を懸命に手繰り寄せていく。
「お忘れになっていても当然です。あの桜の事は、一度だけしかお話しておりませんから」
 男は顔を歪めた西行を半ば憐れむように、また笑顔を向けた。
「あれから四十年、自分が何者であるのかを思い出すために、ずっと旅を続けてまいりました」
「四十年……もうそんなにも年月を経ていたか。だが、そなたは全く年をとっておらんな」
「それは、西行様のかけた術が見事だったからでしょう」
 男の言葉は真っすぐで、嫌味など微塵も感じられない。だが西行にとっては、錐の先で刺されるような痛みを感じる言葉だった。

 今からおよそ四十年前の久安五年(1150年)、出家して十年ほどが過ぎた頃、西行は高野山で修業をしていた。それまで東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んできた西行だったが、思い返せば、この頃が一番迷いの中にいたと感じる。修行の孤独に悩まされた西行は、ひとつの大きな過ちを犯した。反魂の秘術を用いて人を作ろうとしたのである。

 一番の理由は、亡くなった親友の魂をこの世に呼び戻したかったからに他ならない。しかし、それはすぐに叶わぬことだと分かった。反魂するには時間が経ちすぎていた。それでも禁忌に足を踏み入れたのは、未知なるものへの好奇心に抗えなかった未熟さゆえの蛮勇からだったのだろう。
 時は平安末期の乱れが激しくなりはじめた世であった。原野には無縁仏があふれている。西行は野に散らばっていた素性の分からぬ死人の骨を集め、頭蓋から足先まで骨を順番に並べては砒霜(ひそう)という薬を塗って繋ぎ合わせ、何度も反魂を試みた。失敗は六度にわたり、その度に工夫をこらしながら、これを最後にと臨んだ七度目に秘術は成功したのである。
 しかし、反魂によって再びの生を得た男は、見た目こそ人であるものの、血相が悪く、声もか細く、とても本来の人の魂が入っているとは思えない。一縷の願いを込めて真人という名を与えたが、何ヶ月経っても望んでいた人らしさを得ることはなかった。
 やはり自然の理に反する行いは間違いであった。そう悔やんでも、すでに人間の形を成しているので壊すわけにもいかない。結局、西行は誰も踏み入らない高野山の奥地へ男を連れていき、そのまま置き去りにしたのだった。やがて術は解けて、男は土塊に還ると思っていたのである。

「さぞや恨んでおろうな」
 西行は深い後悔の思いに苛まれていた。よもや死を目前にして、取り返しようもない忌まわしい過去が突きつけられようとは。四十年もこの世を彷徨っていたというこの男は、きっと地獄からの迎えなのだろう。
 ところが男は大きく頭を振って、西行の言葉を否定した。
「とんでもございません。西行様を恨むなど…私には感謝の思いしかありません」
 西行は思わず目を見開いた。感謝とは何事か。驚きとも怒りともつかない感情に、衰えた節節が軋むように感じる。
「戯言はやめられよ。でなければ、なぜ…」
 声が震えていた。
「戯言などではございません」
 男は西行の言葉を遮り、あらためて深々と頭をさげた。
「思い出したのです。長い年月こそかかりましたが、私が何者であったのかを。そして、何を未練に、こうして生きながらえているのかを」
 そう言うと、男は懐から一冊の本を取り出し、西行によく見えるようにと顔の前に掲げた。
「そなた、まだそれを…」
 表紙の一部は汚れ、破れ、文字もかすれた『古今和歌集』の写本だった。男を高野山の奥地に置き去りにする際、身勝手な自らの行いを恥じた西行が、せめてもの手向けとして贈ったものである。
 目の前に差し出された写本を震える手で受け取った西行に向かって、男が居住まいを正す。
「どうか私の話を聞いていただけませんか」
 男の視線が真っすぐに西行へと注がれている。いつの間にか閉められた草庵の障子戸を西に傾きはじめた日差しが赤く染めていた。それでも日没までにはだいぶ時間がある。
「西行様に置き去りにされたあの日から、私はただただ山の中を彷徨っておりました」
 無言で見つめ返す西行の視線を承諾と受け取ったのか、男は一度静かに目を閉じてから語り始めた。

②に続く

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