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ロマンティストな織姫 [短編小説]

 電車は三分遅れで、いつも亜由美が降りる駅のホームへと滑り込んだ。
 やっと外の空気が吸える。頭の中はその思いでいっぱいだった。冷房は効いているが、混みすぎているために空気が澱んでいる。足もとからあがってくる蒸れた空気で気分が悪くなりそうだ。
「ここで降りますよ」
 ドアが開く前に、突然背後から男の声がした。強い力で後ろから押されている。振り返ると、坊主頭の男が猛烈な勢いで人をかき分けていた。誰も文句を言わないのが不思議なほど強引な動きだ。身体の重心が不自然に傾いてしまう。
 その時、急に目の前のドアが開いた。そこに立っていた人たちの姿が消え、支えを失った亜由美はよろけるようにホームへ押し出されている。危うく転びそうになった。
「ちょっと、危ないじゃない」
 思わず声が出た。だが、顔をあげた時には、もう押してきた男はいない。改札の辺りまで走り去っている。他の乗客たちは、無関心な顔で再び寿司詰めの車両に戻っていた。ホームに佇んでいたたくさんの待ち人たちを新たに詰め込んだ車両が慌ただしく発車すると、一瞬だけ駅から人の気配が薄くなった。
 朝、この駅で降りる乗客はほとんどいない。昼間は街を出ていく人が多いエリアなのだろう。亜由美の周囲に人気のない空間が広がる。気がつけば朝から陽射しがまぶしい。かざした指の隙間から見上げると、一昨日までのどんよりと曇った光景が嘘のように、真っ青な空が広がっていた。
 月が変わったというだけで、まるで世界が一変したように感じる。梅雨が明けて夏が来たのだ。家を出る時に気づかなかったのは、おろしたばかりの靴が足に馴染んでいなかったせいだろうか。とにかく下ばかり見て歩いてきたのだと亜由美は思った。
 いつもなら、もっと階段に近い場所で降りられる車両に乗っている。だが、今日はまずそこからしてズレていた。無駄にホームを歩かなければならない。余計な事を考えてしまうのは、決まってこんな時だ。そうわかっていても、つい考えてしまう。
 最近は明らかに時間の経つのが早い。そして、いつの間にか、それに慣れてしまった自分がいる。昨夜も聴いていたラジオから午前零時を告げる時報が流れて、今年もすでに半分が終わったと気づかされた。朝から複雑な心持ちなのは、たぶんそのためでもあるのだろう。
 あと二ヶ月もすれば、亜由美は三十歳になる。だが、まるで実感がない。あるのは将来に対するぼんやりとした不安だけだった。
 ひとつは仕事について。市の文化施設に学芸員として就職できた時は心から幸運だと思ったが、しょせんは非正規雇用の嘱託職員でしかない。嘱託職員は一年契約で更新は最長5年と決まっていた。亜由美はもう5年目だから、どんなに頑張って仕事で成果を出しても、今年度いっぱいで確実にクビになる。
 そしてもうひとつは結婚も含めた将来のこと。4年間も付き合っていた彼と別れて、もう1年が過ぎようとしている。もっとも後半の2年は遠距離恋愛で、最後は自然消滅だった。いくらネットなどの通信手段が発達しようと、物理的な心の距離を埋めることは難しい。中途半端なSNSが、余計に心の隙間を広げてしまう。
「亜由美は、自分の都合ばっかり押しつけるんだな」
 最後に会った時、彼はそう言った。ちょうど、はじめて展示の企画を一本任された時期で、仕事が面白いと感じ始めていた頃だった。その準備に追われ、ゴールデンウィークも彼がいる九州の果てまで行く気になれなかった亜由美を、無理をして休暇を取った彼が訪ねて来た。
 あれが二人にとっての分岐点だったと思う。ちょうど、今のように駅の階段には七夕祭りのポスターが貼られていた。最初は遠距離恋愛を彦星と織姫みたいだと笑っていた彼も、自分の甘さに気づいたのだろう。二人の関係は、1年に一日という猶予もないまま、その後急速に冷えていった。あの年から、七夕で短冊に願い事を書く習慣も捨ててしまった気がする。
 ずっと気づかなかったが、駅の構内には七夕の笹が飾られていた。近くには短冊が置かれていて、誰でも願い事が書けるようになっている。何かのキャンペーンだろうかと亜由美は思った。
 いつもならさっさと通り過ぎてしまうのだが、今日は何となく立ち止まっていた。短冊には子どもの文字が多い。たわいもない願い事が冷房の風を受けて揺れている。きっと親子連れの乗客が、のんびりした午後の時間に書いたものだろう。通勤や通学の途中で、こんな短冊を書く姿は想像できない。
 実際、亜由美も書く気にはならなかった。それでも、なぜか短冊を手にしてみる。もしも願いが叶うなら、今の自分は何を書くだろう。
(五年前に戻れますように)。
 心の中にそんな言葉が浮かんだ。もう一度やり直せるなら、何もかも上手く出来る気がした。もちろん根拠は何もない。それでも大事なポイントで逆の選択をしていれば、今ごろ違う人生を歩いていたことは間違いないのではないかと思えてくる。
 仕事も恋愛も、すべてが不完全燃焼だった。吐き出された煤で、今の自分はすっかり黒ずんでしまっている。結局、亜由美は短冊を一枚バックにしまうと、重い足をひきずるように歩き始めた。

 自動改札を抜けると、駅へと押し寄せてくる会社員や学生たちの群れが大通りから続いていた。この光景を見るたびに、まるで『ハーメルンの笛吹き男』みたいだと亜由美は思う。あの物語に登場するネズミたちのように、その群れは大通りの脇道からあふれ出し、流れるように進んできた。
 都心まで一時間以内で通える郊外の最寄り駅は、これからが通勤通学ラッシュの時間になる。皆が朝から下を向いて歩いていた。自分だけではないというおかしな共感と安堵が亜由美の胸の奥でうずいた。
 そんな群れの流れと逆行するように、亜由美は駅から徒歩12分の職場へと道を急いだ。朝一番でイベントの報告書を提出するために、休み明けはいつもより一時間程早く出勤している。
 昨夜は深夜過ぎまでかかって十枚の報告書を書きあげた。アート作品の制作過程を一般市民に公開する企画だから、内容についての記述も疎かにはできない。休館日の水曜日までがどうだったか、一週間分の報告書を書くのはなかなか難儀だった。
 やっと駅に向かうネズミの群れがまばらになってきた頃、亜由美は後ろから走ってくる誰かの気配を感じた。気配はあっという間に追いついてきて、「菊地さん、おはよう」と言う声がすぐ隣から聞こえる。亜由美が顔を向けると、先輩職員の加藤が今朝も本日開店みたいな笑顔を向けて歩いていた。
 いつもは遅刻ギリギリに出勤してくるくせに、なぜ今日はこんなに早いのだろうと訝りながらも、亜由美は心持ち歩みを早めた。
「先週の報告書、書けたの?」
 同じ速さで追いかけてくる加藤が、ネズミたちをかき分けながらひとりだけ踊るような仕草で問いかけてくる。笛吹き男のイメージが加藤にだぶった。「はい」と答えてから、横を見ると、まださっきと同じ間隔で並んで歩いていた。
「順調に進んでいるみたいで良かったね。夏休み前に完成しちゃうんじゃないか」
「まだまだですよ。肝心の小中学生が申し込んでないし」
 プログラムには、地元の小中学生をまじえたイベントもある。今年は子どもたちの参加申し込みが遅かった。昨年の申込者がリピーターになっていないためだ。
「いやいや、それも何とかなるっしょう」
 楽観的な加藤の言葉には、いつも明らかに苛立ちを感じる。亜由美は加藤の能天気な雰囲気が苦手だった。それでいて、いつの間にか頼ってしまう。そんな矛盾する自分の気持ちや態度が許せなくて、今回のプログラムでは、いっさい相談もしていない。
 夏休みになる前に、もう一度学校向けのDMを送った方が良いだろう。その思い付きを忘れないように、亜由美は頭の中で何度か復唱した。
「菊地さん、今年度で終わりなんだよね。嘱託職員の更新は」
 ふいに、加藤が話題を変えた。朝っぱらから、それも加藤からこんな質問をされるとは思っていなかった。
「ええ、そうですけど…」
「だから仕事を頑張ってるのかな?」
「どういう意味ですか?」
 思わず立ち止まっていた。加藤は勢いが止まらず、一気に距離が開く。亜由美には、本当に加藤の言っている意味がわからなかった。まさか、頑張ればただの嘱託職員が正規職員にでもなれると思っているのだろうか。
 確かに亜由美もそう考えた時期はあった。頑張れば、もしかしたら。だが、それはどんなに望んでも叶わない夢物語だ。つい先日も、来年度の正規雇用は増やせないのだと上司から言われた言葉がよみがえる。
「どうしたの?」
 振り向いた加藤が、不思議そうに亜由美を見つめていた。悩みの欠片もない顔をしている。加藤は正規職員だ。亜由美は、もう4年以上その仕事ぶりを見てきたが、何がやりたくてこの仕事に就いたのか全く分からない。いつも器用に、そして狡猾に手を抜いている。加藤にとって、ここは安定した生活を得られる場でしかないのだろう。
「私、加藤さんみたいには考えられないので」
 とにかく、それ以上一分一秒でも一緒にいるのが嫌だった。亜由美はパン屋に寄るからと言って、通りの反対側にわたる。
「じゃあ、先に行ってるよ」
 加藤の声だけが遠くで聞こえた。笛吹き男が吹く笛の音に逆らったネズミはいたのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
 パン屋の前で振り向くと、だいぶ先を加藤はとぼとぼと歩いている。考え事をしているように見えた。気にさせる態度をとってしまったかもしれない。わずかな後悔が、せっかくの朝の空気をますます重くしていく。
 その上、パン屋はまだ開店していなかった。カーテンの隙間から、パンを棚に並べている様子が見える。顔見知りになっている店員の加奈子ちゃんだった。
 加奈子ちゃんは知的障がい者だ。このパン屋は昼食を買うために亜由美がよく立ち寄っている店で、積極的に障がい者を雇用している。加奈子ちゃんは亜由美と同い年なのだが、見た目はもっと若い。この店は亜由美にとって、いつも元気をもらえるオアシスのような店だった。
 だが、開店していないものは仕方ない。亜由美は店の前の自動販売機でミネラルウォーターを買った。
 今日は、どうしてこんなにちぐはぐしているのだろう。何かがいつもと違っている。少しでも落ち着いた気持ちで出勤できるように、亜由美は冷たい水を喉に流し込んだ。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 亜由美の勤務先はこの地域の芸術活動を推進する活動拠点とされている。周辺にある市民団体や美術大学などと連携した企画を幾つも打っていて、亜由美が担当しているプログラムもそのひとつだ。大学生がプロデューサーやディレクターの立場となり、自らの手で企画を作成して、その計画に従って展覧会を開催する。
 展覧会の開催まで半年を要する長期的なワークショップだが、他大学や学科など環境の異なる学生たちとグループワークを重ねながら展覧会をつくるという体験は、今後の活動にも大きく影響する貴重な機会だろう。実際、亜由美はこのプログラムのOGでもあり、その縁があったお陰で、この施設の嘱託職員になれたともいえる。
 亜由美には明確に目的があった。芸術で食べていくことだ。両親にも、高校の教師にも、芸術では食べていけないと反対され続けてきた。
「画家なんて、才能のあるほんの一握りの奴がなるもんだ」
 父親から言われた言葉は、今でもたまに夢に見る。確かにアーティストとして生きることは大学生時代に諦めた。だが、芸術の守り人にはなれると思って目指したのが学芸員だ。だから、やりがいを感じてきたし、続けていきたいとも願っている。
 実際、この4年間で多くの出会いもあった。「展覧会やアート活動に興味がある」、「鑑賞だけではなく美術体験をしてみたい」、「展覧会の仕組みを知って、運営してみたい」。そんな要望に応える度に、わずかずつでも芸術に貢献できている手応えを感じたし、すそ野が広がっている気もした。
 やはり七夕の短冊に書くとするなら、どこかの施設で正規雇用になれますようにだろう。そんなことを思いながら、亜由美はオフィスのドアを開けた。一歩踏み込んで、亜由美は足がすくんだ。正規職員が全員集まってミーティングをしていたからだ。
「菊地さん、おはよう。早いんだね」
 亜由美に気づいた館長が、そう言った。全員が亜由美を見る。加藤の顔もその中にあった。
「今日って、朝から会議だったんですか?」
 一瞬、自分が予定を失念していたのかと思って、亜由美は慌てた。
「いや、緊急で正規職員だけ集まってもらったんだ」
 館長の言葉で、安堵と落胆が同時に襲ってきた。亜由美は、一番隅の自分のデスクまで歩いて行ってバッグを置く。ミーティングに加わっていいものか、躊躇していた。
「ちょうど君に関する話だから、入ってくれるかね」
 亜由美の気持ちを察したように、館長が声をかける。だが、自分に関することだと言われて、不安な気持ちが余計に膨らんだ。
 その時になってはじめて、職員たちの中に見慣れない人物がいることに亜由美は気づいた。サングラスをかけた坊主頭の男。朝、電車から強引に降りていった男だった。
 男の方はまったく亜由美に気がついていない。このミーティングに遅れないために、男があんなに慌てていたのだと亜由美は理解した。そして、加藤がこんなに早く出勤したことも。
「菊地さんははじめてだったね」
 そう前置きして、館長はサングラスの男を亜由美に紹介した。立花という名のその男は、見た目とは裏腹に、県内の大きな文化施設を幾つも管理運営している財団の理事だという。そう言われてみると、駅で見かけた時とは違って役職相応の顔だちをしていた。年齢は四十代半ばだろう。理事としては、まだ若い方だと思う。もともとは彫刻家なのだそうだ。
 芸術家としての立場から理事になったという経緯を聞いて、亜由美は立花に好感を持った。
「実は、今あなたが担当しているプログラムを、県と市の共催企画として来年も続けたいんですよ」
 立花は初年度からプログラムに注目していたという。はじめから携わっていた亜由美は、その一言で嬉しくなった。手探りで一喜一憂してきた年月が、一気に報われた気がしたからだ。
「アートを通じて何かを伝えたいという情熱と、社会に対しての好奇心がある学生ならば、誰でも参加できるというコンセプトが良かった」
 県と市の共催でやるなら、もっと対象を拡げたいのだと立花は言った。絵画やインスタレーションだけではなく、演劇や音楽、デザインといった分野の異なる作家たちが施設に滞在し、枠を超えたアートの創造に挑戦する企画を組みたいのだそうだ。
「そこで、今回館長と相談したのですが…」
 そう言ってから立花は、今後について話しはじめた。
 まず、今年度も県側の職員をプロジェクトに加えること。そして、今回のプログラム終了前から立ち上げる来年度の新しいプロジェクトに、ぜひ亜由美を加えたいのだという。
 亜由美は心臓が止まる思いだった。だが、正規ではなく嘱託職員の自分が本当にプログラムに加われるのだろうか。その不安は、他の職員も感じたようだ。ずっと聞いているだけだった加藤が口を開いた。
「でも、嘱託職員の更新は5年までですよね。それとも正規職員になれるんですか?」
 亜由美の気持ちを代弁する気だったのか、単に面白半分で言ったのかは不明だが、加藤の指摘は確かに一番危惧することで、誰も異を唱えない。
「だから皆に集まってもらったんだ」
 すかさず館長は職員一同を見回した。
「皆も知っているように、この施設は新たに正規職員を増やすことは出来ない。だが、欠員が出ればそれは可能になる」
 一気に職員全員の顔色が変わった。声にならないざわめきがしたような感じがする。それでいて、誰も何も言わない。沈黙が続いた。
「それって、誰かを解雇するって意味ですか?」
 無言のプレッシャーに、たまらず加藤がそう訊ねる。亜由美は、もし誰かが解雇されるとしたら自分が一番危ないと加藤が思っているのではないかと感じた。
「いくらなんでも、そんな乱暴な事は言わないさ」
 そう言って館長は笑った。周囲の緊張が一気に解けていくのがわかった。館長の言葉を受けて、立花が亜由美に顔を向けた。
「菊地さん、来年度からは県の施設に嘱託の学芸員として入りませんか」
 思いもしなかった提案だった。亜由美は目を見開いて立花の言葉を聞いた。
「いきなり正規職員は難しいけれど、予算は通っているので、うまくいけば2年目からは正規職員になる道も開けるでしょう」
 職員たちの亜由美を見る眼差しが羨望に変わった。加藤だけは、少し複雑な表情をしているが、喜んではくれているようだ。
「やらせてください」
 亜由美は勢いよく椅子から立ち上がると、頭が床につくのではないかと思うぐらい深々と立花に向かって頭をさげていた。

◇◇ ◇◇ ◇ ◇◇

 その後、午前中いっぱいを会議に使い、職員たちは昼の休憩に入った。立花はこれから月に数回は打ち合わせに来るという。亜由美は、改めて夢ではないのだと自分に言い聞かせた。それでもまだ、どこか自分事ではないような浮遊感から抜け出せずにいる。会議中から、ずっと地に足がついた気がしていない。県の施設で学芸員として働ける。朝からずっと心を重くしていた将来への不安が、いきなりなくなったのだ。
 七夕の短冊に書くことを決めたからなのかもしれない。会議が終わった後、亜由美は駅でバッグにしまった短冊を取り出して、正規職員になれますようにとマジックペンで書いた。心の中の声だけでは、やがて消えてしまうかもしれないと思ったからだ。
 願い事は幾つ書いてもいいのだろうか。ふとそんな思いが湧いてきて、同時に別れた彼のことが心に浮かんだ。彦星と織姫の事を考えれば、いろいろ望みすぎてはいけないのかもしれない。そんなことを考えながらペンを置いた亜由美は朝買えなかったパンを買うために外へ出た。

「いらっしゃいませ」
 今日は、加奈子ちゃんが店のレジに立っていた。障がい者といっても、一見するだけではわからない。亜由美もしばらくは、シャイなアルバイトの高校生だと思っていた。だから同い年だと知った時は、本当に驚いたものだ。
 でも、何度か言葉をかわすうちに、精神的にはとても大人なのだとわかる。人は見た目ではないという典型的な例かもしれない。
 ふと見ると、レジの脇に一昨日まではなかった七夕の笹が置かれている。枝に何枚かの短冊が結ばれていた。
「七夕の笹、置いたんだね」
「そうだよ。願い事書いた」
 そう言うと、加奈子ちゃんは嬉しそうに笑った。
「今日は早番だったの? 朝からいたでしょう?」
 他の客がいなかったので、亜由美は加奈子ちゃんにそう訊ねた。
「そうだよ。パンも焼いたの」
「わぁ、じゃあ加奈子ちゃんが作ったパンを食べたい」
 亜由美は、加奈子ちゃんが生地からこねたというお勧めのパンを三つ買うことにした。コロッケパンとチーズパンにクリームパン。レジで代金を支払うと、加奈子ちゃんは不器用ながら丁寧な手つきで、一個ずつパンをビニール袋に入れてくれる。
 待っている間に、七夕の短冊を見た。店員だけでなくお客も自由に書けるようにしているようだ。
「お願いあるなら、書いていいよ」
 パンを全部包み終えた加奈子ちゃんが亜由美に言う。
「加奈子ちゃんは、どんなお願い書いたの?」
 何気なく訊いた質問に、加奈子ちゃんは、「人の役にたてますように。それから、みんなが幸せになりますように」と答えた。
「…素敵だね」
 七夕の願い事で、みんなの幸せを祈っている加奈子ちゃんを亜由美は心から偉いと感じた。反対に自分の事ばかり考えていたから、今朝はあんなに暗くて、ちぐはぐで、苛立っていたのだろう。短冊を見つめながら、亜由美はそう思った。きっと別れた彼との関係も同じで、一事が万事だったのだ。
 ちゃんと手紙を書いてみよう。不完全燃焼のままで終わらせるのではなく、ちゃんと思いを伝えて、それで終わるものなら、しっかり終わらせればいい。亜由美は心の中の煤が落ちていくように感じた。
 そしてもう一つ。加奈子ちゃんと話しながら、一枚一枚短冊を眺めていた亜由美は、その中に見慣れた文字を見つけて驚いた。
 ―格差のない職場になりますように。
 どう見ても加藤の文字だった。
「これって…」
 亜由美がその短冊を見ていると、加奈子ちゃんが横から覗き込んできた。
「それ、加藤さんのお願いだよ」
「彼もこの店に来るの?」
「いつもたくさん買ってくれるし、招待券なんかをみんなにくれるんだ」
 意外だった。自分が知らない一面が加藤にもある。今朝の不愉快に感じた唐突な質問も、自分の事を考えてくれていたから出た言葉なのかもしれない。亜由美は、ちゃんと人を見ようと改めて思った。
 加奈子ちゃんをはじめ、たくさんの人たちが誰かの役に立ちたいと思いながら働いている。自分もそう思ってきた。加藤だってそうかもしれない。芸術は社会の役にたてるはずだ。そして、役に立つものを職業にする者たちが食べていけないはずがない。
 亜由美はレジの横に置かれていた短冊に、ピンクのペンで願いを書いた。
―芸術を通して、みんなが幸せになれますように。
 加奈子ちゃんは、カッコいいねと言いながら、その短冊を笹の枝につけてくれた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 加奈子ちゃんに送り出されて、やっと本当の一日が始まったように思えた。晴れた空には天の川は見えない。けれど、確かにそこには星が光っている。亜由美は、そんな星たちの輝きに照らされている気がした。

※秋ですが七夕の頃のお話を。晴れた日の夜空がとっても綺麗で、この時期に七夕ならば、織姫と彦星も幸せなのにと思ったりします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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