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「大河ドラマが生まれた日」もう一つ、テレビと映画の対立的なものが見えてこないのが・・・。

結構、この企画楽しみにはしていた。最初に大河ドラマが放送されたのは、東京オリンピックの前年の1963年。日本自体は高度成長期に入り、勢いはあったのだろう。日本のテレビ放送が始まったのは1953年だから、ちょうど10年目の節目の出来事だったということだ。

とはいえ、ここで主人公の生田斗真が、映画制作希望だったが、入れなくてテレビ局に入ったというのはこの当時はよくあることだったろうし、テレビが映画に対し、コンテンツとしてあまり優秀なものとして考えられていなかったのは事実だ。それは、私が映画に本格的に興味を持った1980年代でもあまり変わりはなかった。それは、テレビの画質や撮り方の問題もあったとは思うが、映画を「本編」と呼ぶ風習には驚いたものだ。

そんな、テレビを電子紙芝居などとバカにされた時代に、大型時代劇を作るという発想が出てきたことは、かなり大胆な話だったとは思う。そして、ドラマにも出てくるように映画界に「五社協定」というものがあり、そんなに簡単に人気俳優が商売仇に身を売る時代ではなかったのだ。そして、NHK自体にも今ほど唸るほど金があったとも思えない。その中での話だということを念頭においてこのドラマに触れる必要はあると思ったりする。

ということで、ここに出てくる。阿部サダヲや生田斗真のように、毎日、俳優の家にお願いに通うということをしたのはわかる。しかし、この二人を主役にするなら、脚本は宮藤官九郎で見たかったですよね。そうしたら、また違った角度から描けたような気もしますな。

それはそうとして、生田が佐田啓二の家を訪ねて続けて頼むみたいなこと、今ではとても無理だろう。だいたい、今は全てプロダクションを通さないといけないのですものね。まあ、ここでも松竹を通すシーンはありますけどね。そんな中で、子供の貴惠ちゃんと仲良くなるのにダイヤゲームをやってたりするのに、何かすごく懐かしさを感じた。そして、周囲の意見を聞いて佐田がこの出演を決めたというのは本当らしく、その周囲の人に小津安二郎も入っていたらしい。小津はこの年、1963年の暮れに亡くなっているから、このドラマも見たのであると思う。そして、彼がもう数年長生きしていたら、彼のテレビドラマ演出もあったのかもしれないと妄想してしまった。よく、黒澤、小津、溝口というが、彼らがテレビドラマの演出をしていたら、テレビドラマの歴史はまた変わっていたと私は思います。

まあ、制作が始まり、セットの組み替えや撮り方というものの効率化を考える話があるが、その前の生ドラマ中心の制作状況から、ここで一気に今につながるドラマ制作が行われるようになったのだろう。だいたい、この当時民放で流れるドラマは16mmで撮ったテレビ映画と呼ばれるものが多く、VTRを使ってそれをやっていたのはNHKくらいだと思う。そう考えると、やはりこの大河ドラマ制作というやつはドラマ史の中でかなり重要な出来事だ。

最終回にダイナミックな桜田門外ノ変を撮るために東映京都の撮影所を使ったのは本当のことらしいが、ここで描かれる雪の情景の作り方なかなかすごいですよね。今の大河は CG使ってあまりにも巨大な城を描いたりしてますが、そういうリアリズムよりも、これなら見られるだろうくらいのリアリズムを作る方が頭使ったりしますよね。そして、ここ借りるのにいくらかかったのでしょうか?当時の大河ドラマの終始決算が見たいです。

当時の世相や恋愛模様もそつなく入れながらの流れ、なかなか面白く拝見させていただきました。松本穂香はこういう2枚目もちゃんとこなしますよね。そして、お父さんは伊東四郎というのもなかなか昭和っぽくてよかったです。そう、こうやってテレビのある家にみんなで集まって見たものですよ。電気屋の前のテレビの群衆なんかも出して欲しかったですね。そして、お茶漬けで締めたのは何かすごく暖かかったです。

で、ここで、この「花の生涯」撮り終わってから、「赤穂浪士」を撮る話に繋げてますけど、これは嘘ですよね。役者選びとかから考えて、最低半年前から次の年は動いている。もう、「花の生涯」が始まってすぐに反響があったのでしょうね。

しかし、この大河ドラマ、なくすという話は全く出ないみたいですが、まあ、時代時代の役者さんで変えていけば、戦国も幕末もまた変わったものができるということはありますけどね・・・。これから、どうなるのでしょうか?

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