見出し画像

「青くて痛くて脆い」暴力を失くせば世界は変わる。その言葉は暴力的な世界を作る

住野よるの原作の映画化。青春の時期に多くの人が経験する、不思議な縁と、それが一転するジェラシーとの葛藤。ここに描かれる主人公のような心もちは決して珍しいものではない。ただ、それを実行に移すかどうかだろう。そして、ネット社会では、実行に移すことは簡単にできてしまう。そんな世界の映画化は簡単そうで難しい。

主人公の吉沢亮演じるところの楓が事を起こす気持ちはわかる。だが、そこに共感も違和感も得られないままに、ただドラマが動いていくような感じだった。彼の演技が悪いのではない、原作も脚本も焦点がボケていく。復讐をしようとする杉咲花演じる秋好の事を、どう解釈し、どう思っているのか?出会いの部分以外はよくわからない。

それを秋好側から観た場合、もっと理解が難しい。なんせ、最初に死んだことにされているのだから。いっそ、本当に死んでいて、その真相を確認するサスペンスの方が面白かったのかもしれない。

昔から今に至るまで、ここに描かれているような、ある意味、目的の本質は異性間交流にあり、客観的に見ればマスターベーションにしか見えない、宗教的な集客力のサークルは多くある。彼らがよく口にするのも「世界平和」と言う言葉だったりもする。そう考えれば、最初から、秋好は痛い女でしかない。そして、楓は上手くコミニュケーションがとれないだけの男だ。「世界平和」とは便利な言葉で、美しいが、それを念ずるところに戦が起こる。

そんな2人の出会いの中で名前の「秋繋がり」と言うのがあるが、映画の中に秋は出てこない。こう言う中途半端な物語の繋がりも、全体の焦点をぼやかせる。楓の復讐劇は、格好悪い以外の何者でもない。突き詰めて行って、秋好が多くの企業と繋がって、世界平和よりもビジネスが先になっているのも同情できない。どこに秋があるのか?

ここで描かれる全ての世界は、映画が終われば気持ち悪いだけである。出来損ないの宗教団体に世界平和的なものは見えてこない。映画としては、ラストで後輩が元の秋好の意思を継いでいて、楓はもう一度やり直そうと言うところで終わるのだが、何も解決していない。観ている側にも何も訴えていない。

そして、二人の周囲で動く、岡山天音や松本穂香たちも狂言回しにもなっていない。ある意味、それはリアルな大学生の感情に近いのかもしれない。つまり、仲間ごっこみたいのがあり、それぞれの気持ちには焦点がない。その状況を言い表せば「青くて、痛くて、脆い」。このタイトルだけは秀逸である。そして、映画の焦点のなさは、それを見事に表現していると言えるのかもしれない。ただ、映画としてはつまらない。

フリースクールのシーンがあるが、ここでのフリースクールの生徒たちは必要なのだろうか?その一人に森七菜がいて、彼女が歌うシーンはなかなか面白かったが、その後のここに来るきっかけになった教師の光石研とのやりとりは何だったのか?これを見ても、秋好の周囲に「世界平和」はない。

特に思いも技能も何もないものが、ただ仲良しサークルで世界平和を目指すみたいな話が無機質であり、気持ち悪い青いTシャツを着た仲良しの集団はどんどん孤立した宗教的な組織になっていく。それが大きくなることに酔う秋好も、そこに合わずに抜けて潰そうとする楓も実際にいそうなキャラクターだけに、映画としては痛い。

いつも、書いている様に、映画に没入するには、映画にシンクロする必要もあるし、そこで行われるミッションに共感する必要がある。そう言うものを全て排除している様な演出はわざとなのか?この題材を映画にする意味とは何なのか?多分「君の膵臓が食べたい」の作者の作品だからと言うだけだろう。TV局が考えそうなことである。

奇しくも、主人公の吉沢亮は来期の大河ドラマの主役であり、杉咲花は連続テレビ小説のヒロインである。ある意味、旬の二人でこの映画と言うのは、ちょっと辛かった。多分、スタッフもこれを作ることにノッていないのではないだろうか?映画の完成品が消化不良の様なものになっている…。役者の演技はそれなりに勢いがあるので残念な作品だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?