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「親」という言葉を禁じられた子どもたち

子どもが健全に育つ環境を目指すのであれば、自分自身が「不都合な親」にならないことが大切です。しかし前回の記事でも触れたように「両親のいない片親環境」では不都合な親による虐待がしばしば起こります。

親から見たら、いや、大人から見たら「そんなの虐待ではないでしょ」「いちいち騒がないで!」と思うことも、子どもからしたら何年も苦しめられていることというのはくさるほどいっぱいあります。

ゴミ屋敷にずっと住んでいたら気分が暗くなるように、
賞味期限の切れた腐った食べ物ばかり食べていたら体調を崩すように、
精神的な痛みを受け続けていると人格が崩壊していきます。

だからこそ、ちょっとしたことでも子どもの気持ちにたって考えてあげられるように、片親環境の親御さんには「子どものリアル」を知ってほしいんです。

離婚はただの「お別れ」ではなく「失踪」である

「パパは何してるの?」
「ママに会いたい〜!」

両親が突然離婚したり、別居したりして会えなくなると、子どもはまずそう感じるものです。親しい人間が急に目の前から姿を消すわけですから、当たり前といえば当たり前です。もし、親しい友人や、会社で隣の席に座っている同僚が、今日理由もわからず突然いなくなったとしたら驚きませんか?

きっと驚きますよね。驚くどころか、知り合いに片っ端から連絡して、心当たりあるところを探して、携帯に電話をして、警察に捜索願を出してと、大慌てになることでしょう。

子どもにとって、いきなり親と引き離されるというのは、それと同じことが起こっています。もうね、失踪ですよ。いつの間にか親が失踪しちゃったと、そんな気分。しかも大人のように100人いる知り合いの一人ではなく、世界にたった2人しかいない知り合いのうちの1人が突然いなくなるわけです。

「連れ去り別居」の場合はもっと悲惨です。「実子誘拐」という言葉のとおり、親の失踪ではなく、まさに「誘拐」であり「自分が失踪」しているわけです。たかが別居、たかが離婚、ではありません。子どもにとってみると、それは今まで経験したことのない、人生の変容なのです。

アイデンティティは何からできている?

子どもにとって自分が住んでいる家、自分が一緒に暮らしている親、そして兄弟姉妹は自分のアイデンティティを形成する一部です。動物に育てられた子ども、などという話もありますが、その子は動物に近い存在になるといいますよね。親は子どものアイデンティティに直結しているわけです。

幼少期を「実験室」で育った子どもに、豊かなアイデンティティが育まれると想像できるでしょうか?

おそらく難しいと思います。それくらい子どものアイデンティティにとって住んでいる家や親兄弟といった環境は大きな影響を及ぼします。子育て中の親にはまず、その点を知ってほしいなと思います。

アイデンティティは成長には欠かせません。発達理論の分野でいえば、ドイツのエリクソン(エリク・ホーンブルガー・エリクソン)が「自我同一性」について提唱しているのが有名です。詳しく知りたい方はぜひ書籍やサイトなどでご覧になってくださいね。

まとめると、子どもにとって住んでいる家、両親の存在はアイデンティティにとって大事であり、容易に無くしてはいけないものだということです。

「親」という言葉さえ使えない子どもたち

離婚や連れ去りを含む強制的な別居を受けて、
「パパは何してるの?」
「ママに会いたい〜!」
と声に出すのは子どもにとっては当たり前のことです。だって、会社の隣の席の同僚がいきなり理由もなくいなくなっているようなものですからね!

そんな子どもの純粋な疑問や気持ちを「あの人の話なんてしないで!」「パパ(ママ)はもういないの!」なんて言葉で封じ込めるのは、子どもの存在を否定することにつながります。なんども繰り返しますが、「親」といえば子どもにとって「両親」のこと!それを否定することは、子どものアイデンティティ喪失に大いにつながります。

私は「まるで一人しか親がいない環境」になったことで、人前で「親」の話をするときに「親」という言葉を使えなくなりました。


意味がわかりますか??


みんなが「私の親はさ〜」って言ってる会話のなかで、私の場合は「そうそう、うちの母親なんてこうでさ〜」などと「母親」と言わなければいけなくなったんです。

みんなにとっては当たり前の「親」という言葉も、父親のいない私にとってはとても「非現実的」な言葉で、現実的な言葉は「母親」でした。だから「親」という言葉は以後、「母親」という言葉にすり替えられてしまいました。

一方、「ランって親との関係は良好?」って聞かれるとき、すぐに返事はできませんでした。なぜなら「母親とのこと?」って聞かなければいけなかったからです。私の幼少期の話はまたおいおいしますが「親と喧嘩したことある?」なんて聞かれたときなんてもっと困ります。

友人「ねえねえ、親と喧嘩したことある?」
あちき「ん、父親のこと?」
友人「そうそう、最近ケンカしちゃってさ。家に帰るのもイヤなの」
あちき「実の父親だったら、自分はケンカしたことはないかな〜。一緒にいたの小学生の頃だしね〜。義理の父親はひどかったからケンカなんてものじゃなかったけど笑」

なんて会話を繰り広げていました。「親」という単語はね、私を混乱させる呪文でした。もうね、メダパニですよメダパニ!もちろん今は特に気にしませんが、当時は、この「小さな違い」のある言葉に触れることで、小さくない葛藤が常についてまわっていました。

不都合な親が、「自分」の都合のいいように子どもに負担を強いる「片親環境」では、こうしてちょっとした日常生活にも子どもは苦しむことになります。もちろん親は気づいていないでしょうが、子どもからするとそれすらも親の都合で自由を奪われているわけで、果たしてそれは「虐待」ではないと言い切れるでしょうか。

片親環境で生きる子どもにはそんなことが付いて回ります。友人たちと「片親環境」の自分との差をつきつけられて、親との葛藤に向き合わなければいけなくなるのです。





子どもと会えない親、親と会えない子どもたちの支援を自費を投じながら行っています。少しでも多くの子どもたち、そして親子が幸せになってほしいと願っていて、周知も含めて活動を拡大したいと思っています。共感していただけたらサポートしてくださるとうれしいです。活動の支えになります。