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もしも、人生が交換できるなら

どうも、るのです。
昨日の投稿で経歴がどうのこうのと書いたので、今日はそれにまつわるお話を。

私は中学生のころ、湊かなえさんの「少女」という小説を読みました。
鮮やかな伏線回収や、最後のもやっとした終わり方が秀逸で心に残っている1冊なのですが、その中にこんな文章があります。

あんたがそれほど不幸だと言うなら、わたしとあんたの人生をそっくりそのまま入れ替えてあげる。それに抵抗があるうちは、あんたはまだ、世界一不幸ってわけじゃない。

「少女」(湊かなえ)

すごく救われる言い回し。
今は辛くとも、過去を振り返ればその人なりに幸せや誇りを感じてきたこともあるわけです。
それを失ってしまうのは悲しい、だから抵抗があるし「世界一不幸ってわけじゃない」のだと解釈しました。

この1節を今、改めて考えてみます。
私は他人の人生と自分の人生を交換できるのだろうか?

本当はノーと言えればいいのでしょうが、イエスと言ってみたい自分がいます。
自分が完全に不幸だとは思わないけれど、今の人生とは別のところに幸せを感じる生き方が魅力的に見えるから。

私は一般的ないい家族のもとに生まれて、大切に育てられました。
学歴だけなら人より少しいい方かな、なんて思っている節もあります。

でも性格はコミュ障。
就職での面接にも一苦労、いや十苦労(?)くらいしましたね…
いざ社会人になってもコミュ障が1因となり、ろくな経歴がない…

だから学歴がなくともコミュ力や人望があり、自分の力で出世した人は、なんてうらやましいのかと。
何度そちらの方が幸せかと思ったか分かりません。
「入れ替わりたい」ってことですね。

でも冷静になって考えると、その人だって幸せとは限りません。
例えば学歴が低いことで差別を受けたかもしれないし(昨今はどの程度あるのか分かりませんが)、家族との仲がよくないかもしれません。
そういう場合は、私の人生と入れ替わりたい人もいるのかな。

結論、みんな別ベクトルに幸せであり、不幸なんですね。

先ほど他人と人生を入れ替えられるのか、という問いにイエスと言いましたが、「自分の人生と他人の人生を自由に行き来できるなら」という条件つきかも。

一度入れ替わったはいいものの、きっと元の自分に戻りたくなる瞬間があるはず。
でも根底には自分と他人を都合よく使い分けたい、なんていうちょいせこい願望もあるわけですが。

またこの結論から言うと、簡単に「あの人は人生楽しそう」「あの人は可哀そう」と言うのも失礼な話

だからないものねだりはしない。
ちょっと(かなり?)生きにくいこの性格で、なんとかやってみよう。

なんといっても、人生を入れ替えるなんて現実的にはできないですからね。