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阿見ACでの13年間

茨城県の阿見町という自衛隊の町に生まれた僕は、両親が共に陸上選手という家庭で育ちました。
もともと両親の職業は会社員と教師だったので陸上一家という認識はしてなかったですが、ある日から父の3つ上の兄への長距離走の指導がはじまりました。

兄は町内でもトップクラスに速かったので、兄の友達たちが、「僕も!私も!」と指導をしてもらいに集まってきました。
それが今僕が所属する阿見アスリートクラブの始まり、当時6歳。

僕も小学校3年軍団(兄たち)にひっついて、いつも練習にいって遊ぶのが習慣になっていました。
小学校にあがり、自分が走ることが得意なんだということに気がつき、手っ取り早く人に褒められる特技として、その頃からだんだんと好きになっていきました。

最初は友達に会いにいく為に通っていた少年団のサッカーの方が好きでしたが、チームプレイがあまりにも苦手、人が外したシュートはまだしも、自分が点を取れなくて負けても、僕だけのせいじゃない。「ドンマイドンマイ」というのがどうしても納得がいきませんでした。そんな自分にチームプレイはできないと、全責任を自分が負える陸上競技をやりたいと思いました。

と、いうのはただの言い訳で、本当はたいして上手くないので続ける価値を自分の中に見出せなかっただけでした。笑

中学に上がり陸上一本に絞った僕は、元長距離選手の父の熱すぎる勧誘で、気がつけば中長距離の練習をしていました。いまだに、なぜ中長距離をやっていたのか、はっきり覚えていません。いつの間にか魅力に取り憑かれていました。
でも、この頃までは長距離ばっかりの練習が嫌だったので、ハードルや高跳び、いろんな種目にトライしていました。
その頃でも兄の代の選手と一緒に競うのが楽しくて、毎日のように練習で勝負を挑んでは高校生に負けることを繰り返していました。

元々小学生しか指導していなかったクラブでしたが、子供たちが中学に上がるタイミングで各学校の先生にお願いをし、クラブで練習を継続し、
高校に上がる時も同じく、進路選びからクラブチームと部活動の両立に前向きな学校を探して、選手が選び、また高校での環境を作っていきました。

初代メンバーの意欲で築いてくれたこのシステムは今尚引き継がれ、未だ発展途上です。

このシステムって最高だな。と、上のカテゴリの選手と共に走れる事は、なかなか部活動では味わえない体験で、格上とトレーニングして強くなるのはもちろんのこと、

子供達のそれぞれの憧れの存在がいつも近くにいて、その人を追いかけて練習をする。

それがクラブチームの醍醐味です。

それから僕たちが高校生に憧れたように、
次は僕らが高校生になり、年下の子供達に憧れられるような選手を目指して、自立し、トレーニングをして、レースに出場する日々。
意識をせずとも自分が目指す理想像が自分の中にあって、それに近づくための陸上競技をできていた時間がその頃の僕の強さでした。

クラブを卒業し、大人になって、競技力が第1になってしまっていた僕は、
楽しいと思っていたはずの陸上も、作業と化し目標に囚われ、目標に届かない時はなぜ走ってるのか、見失う時期もありました。

クラブの13年間で培ってきたはずのパワー原動力となる、走る理由を失ってしまっていました。

誰かにとってのヒーローになりたい。

それに気がつくまでに5年かかりました、まだ遅くない、今年で20年目を迎える阿見アスリートクラブに戻ったこのタイミングで、そのことに気がつけたこと。クラブチームという形で育ってきたおかげだと思います。

これからは子供達に夢を与える象徴として、挑戦を続けていきたいです。


次回はちょっと振り返り。
アメリカ ボストンでのBU Last Chance Invitationalのコト

お楽しみに!

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