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「昔は~」はダメですか💦

どっちも中途半端では?

「多様性重視」「ICT教育推進」「不登校増加」「働き方改革」などにより、学校現場は目まぐるしく変化している。

▪欠席届けがメールでも出せるようになった。
▪家族旅行での欠席も認められるようになっていく。
▪宿題はなくなり、個人に合った学習に切り替わっていく。
▪授業や宿題でタブレットが使われる機会が増えてきた。
▪学習を無理に詰め込まなくて良く、昼休みや放課後に指導することも減ってきた。
▪「し~ん」とした学習環境でなくて良いとされだした。

など、自分が小学校の時(35年前)には考えられなかった状況になっている。
もちろん、様々な理由があり、この状況で救われる子どもや保護者や教師がいるのは理解できる。

だが、全体的に見て良くなっているのか、私には疑問だ。
実際に、先生になるような人でさえ、大人になってないまま採用され、「社会人とはこういうものだ。」から教える状況になっている。

上記の順に、思うところを書いてみると▪▪▪。

▪欠席届けがメールでも出せるようになった
 ↓
欠席しやすい状況になり、例えば「ゲームなどで夜更かししていて睡眠不足のため、気分が悪くて休み」「親が起きれないから休み」「嫌な授業があるから休み」など、我慢や努力すべき理由での休みもとりやすい状況になっている。

▪家族旅行での欠席も認められるようになっていく。
 ↓
家族旅行や行事は、見聞を広げたり、家族の絆を深めたりと有意義だが、それで遅れた学習内容は保護者が補習するのか?または、休んだところはやらなくていいのか?

▪宿題はなくなり、個人に合った学習に切り替わっていく。
 ↓
特に小学生では、受験しない限り、たりないところを自分で学習することはしない。保護者が学習内容や到達度を管理するのか?塾に通わせるのか?学校でやったほどで良しとするのか(だんだんと話の聞けない子どもが増える中で)?
今より学力差がつくのは必須。こうなると、学力は家庭の経済力や保護者の関わりに比例していくだろう。それでいいのか?

▪授業や宿題でタブレットが使われる機会が増えてきた。
 ↓
タブレットの授業では、
常に全体を管理するのは難しい。こっそり違うことをやる子どももいる。
キュビナなどは「間違い」や「どう解いたか」が消えてしまい、「クリアしたかどうか」しか残らない。
丁寧に書く必要がなく、「きれいな文字」や「何度も書いて覚える」ことはできない。
タブレットと黒板とノートと▪▪▪あちこち見るのは、学力の高い子どもでないと難しい。机の上も整理しにくい。
タブレットのトラブルで、時間が奪われたり、やるはずだったことができなくなったりする。
調べ学習では、子ども向けサイトであっても、書いてあることがわからず質問だらけで進まない。 などなど▪▪▪。

▪学習を無理に詰め込まなくて良く、昼休みや放課後に指導することも減ってきた。
 ↓
苦手な学習がある子どもに指導する時間が少ないので、伸び悩み、できないところが増えていく。

▪「し~ん」とした学習環境でなくて良いとされだした。
 ↓
ざわざわしたり、ボーっとしたり、姿勢が悪かったりする中で指示を出すと、多くの子どもが聞いていない。だから、今出した指示をそのまま質問してきたり、さっと取りかかれなかったり、学習内容が身に付かなかったりする。それらを指導する時間もいるが、もぐらたたき状態。

新体制に移行中だから、こうなるのか?
続けていけば、落ち着いてきて良い方向に向かうのか?

特にタブレットに関して、
これからはペーパーレスで、何でもデータでやりとりするようになる未来は見える。だから、パソコンなどを扱う力は必要だということもわかる。

しかし、産まれた時から画像や動画漬けで、手先を使っての遊びや、物を使っての遊びが少なく、手先が不器用でイメージ力も低くなっているところに、小学校からタブレットは必要か?と感じる。
まずは、基礎学力と基本的な生活習慣を、その子どもの精一杯のレベルまで引き上げるべきではないか?

これについて、「将来的には『書く』ことは必要ないから、タブレットを使う方が良い」と言うなら、漢字指導も、テストなどせずに「覚えたほど」にしてほしいし、計算指導も「電卓でOK」にしてほしい。
小テストや個別指導で、必死に覚える苦労もさせられ、タブレットもさせられでは、どちらも中途半端になっている子どもの方が多いと思う。

昭和世代⁉️では、「受験のため」「安定した収入を得る仕事につくため」に必死に覚える勉強をしてきた。
確かに、仕事に直接使う内容は、ほぼないが、「複数のことを同時進行する力」「嫌なことでも我慢してこなす力」「頑張った先の喜びを知れた」などの利点もある。
こんな私の感覚では、「多様性」を重視し、「無理しない、我慢しない」精神を前面に出して、将来、納税できる大人が育つのか?と心配になる(本来は働ける能力のある人が働かない という意味)。
ただでさえ高齢者の割合が高くなるのに、納税者が減り、国がまわらなくなっても、個人優先なのか?

「自分にぴったり🎵」な仕事をしている人の割合は少ない。「生活のため」だし、「税金を納めて国を回していくため」に働くのはダメなことだろうか?
食べていけるだけの何かがない場合、学習が苦手な子どもは、体力勝負か弟子入りするような職業を選ぶことが多いだろう。しかし、今の子どもに、それらの仕事を続ける忍耐力が備わっているとは言い難い。

また、上記(冒頭の箇条書き)のような状況が続くのは、長くて中学校まで。成績に順番がつき、受験のためにかなりの学習時間が必要になり、学力で選べる高校が決まり▪▪▪。
小学校までは「ありのままのあなたでいいよ。」だったのが、「世の中のものさしではかられ、落とされる」ことになる。

この差は残酷だ。

だったら、小学校のうちから「世の中のものさし」を使うか、受験や仕事でも「小学校のものさし」でいかないと、今のままのどっちつかずでは、教える方も教わる方も、基準をどこにすれはいいか分からずに迷走し続けることになる。

予算や地理的問題は分からないが、「これまでのように学力を伸ばす学校(クラス)」と「学習はできたほど。その他の得意を学べる学校(クラス)」とに分けて選択制にすれば、教わる方のニーズにも対応でき、教える方も基準がもうけやすく働き易くなると思う。

いろんな研修に参加しないので(非常勤)、様々なご意見があると思いますが、昭和世代の現役非常勤は、こんなことを考えながら、「書かせる」学習中心で、日々、子どもの学力向上に力を入れています(体罰はしないが、ピシッとさせるやり方で😁)💪


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