「ラブリー」 5
第5章 コーンフラワー・ブルー
授賞式の時を除けば、久しぶりにスカートを履いた。
何しろ、高級ホテルのレストランだ。いつもの通りのスニーカーにチノパンというわけにもいかない。
そういえば、パンプスも久しぶりだ。ちょっとつま先が痛い。背筋が伸びる。少しだけ視線も上がる。
白ブラウスに黒のスカート姿で、会社では「お、藤崎今日はデートか?」って聞かれるくらいには普段と違う格好なんだけど、それでもあまりにもこの場ではそっけないので青いシフォンのスカーフをふわりと首に巻いてみた。
エレベータを降りて、絨毯の上を歩いてレストランの入り口に辿り着き、
「予約している長山ですが」
と伝えると、「お連れ様はもういらっしゃってます」と席に案内された。
お連れ様は、確かにいた。
…彼は、授賞式の時と同じ、スーツにネクタイで、カッチリと緊張感のある面持ちで座っていた…。
「来たよ」
見違えるね、という言葉を、言ってもいいもんだかわからなくて飲み込んだ。下着のシャツに短パンでビール飲んでるこの人とは別人のように、その…カッコいい。
元々は涼しい目元に鼻筋の綺麗な、なかなかの男前なのだ。痩せすぎてはいるけれども手足も長くて、背も高い。
「あ、瑠璃ちゃん」
硬い表情のまま、聡太さんは私に席に座ることを促す。
「ありがとうね。ってか、すごいゴージャスね…」
私はキョロキョロしながら椅子に腰掛ける。いつの間にかウェイターさんが後ろにいて、椅子を引いてくれた。ドキドキする。
「この暑いのに、ネクタイしてきたの?暑かったでしょう?」
私は普段通り話しているつもりだ。でも…彼は、言葉数少ない。
やがて、フルートグラスにシャンパンが運ばれてきた。
すごいお祝いっぷりだな…と、私は彼の目を見る。彼は…ふっと、目をそらす。なんだ?
そして、
「受賞、おめでとう」
と、乾杯。
すると彼は、荷物置きの中から花束を出してきた。
「これ」
…そこには、向日葵とトルコキキョウ、それにブルースターが美しくまとめられていた。まるで、夏の空のように。
「うわあ…可愛い…」
「小説のタイトル」
彼は、少し照れたように下を向きながらそう呟いた。
「気にしててくれてたの」
そう、小説のタイトルは『向日葵の素描』。
登場するのは向日葵のような、素朴で明るい男性だ。社会に傷ついた主人公は彼に癒やされ、前を向いていく。…まだ読ませていないけれども、向日葵のような人のモデルは、聡太さんだ。
彼に対する感謝の念を書いたような小説なのだ。
私もちょっと照れ臭くて、赤くなりながら花束を受け取ろうとする。
ステムのところを握ると、何やら硬いものが手に当たった。
「ん?」
硬いものは、私の手に押し付けられた。危うく落としそうになったので、両手で花束とそれを抱えるようにして受け取る。
「んん?」
それは、ベルベット調の布が貼ってある小箱だった。
「開けて」
彼は、下を向いたまま私にそう告げた。
ドキドキする。
箱を開ける。
そこには、大きく明るい青の石がセッティングされた…メレダイヤが両脇に光る…指輪、があった。
「サファイア」
彼は斜め下を向いて話し始めた。まるで私の目が見られないという風情で。
「コーンフラワーブルー、って色らしい。矢車草の青。本当はコーンフラワーブルーのサファイアってインドのカシミール地方で採れるらしくて、今は紛争で採れなくて流通がないんだって。でも、どうしてもその明るい青が綺麗で、瑠璃ちゃんみたいだったから…これはスリランカのものなんだけど、これも色的にコーンフラワーっていうらしくて、で、瑠璃ちゃん9月生まれだし誕生石ってやつみたいだし」
捲し立てた後で、ふと、私の目を見た。
「あのっ」
「はいっ」
彼は指輪を箱から取り出し、私の左手を取って、薬指に指輪をはめた。指輪はピッタリと私の指に馴染んだ。
「…あの、いいでしょうか?」
「はい」
…もう、言うまでもなかった。でも、彼は私の目を見て、指輪を見て、もう一度私の目を見て、言った。
「結婚、しませんか?」
私は…
ボロボロっと涙が出てきた。意外すぎて自分でもびっくりしたのだが、私の目は涙を落とし続けたのだ。
「瑠璃ちゃん!?」
聡太さんが、慌てる。そりゃそうよね。私だってこんなことになるとは思っていなかったから。
「嫌だった!?」
「…馬鹿」
私は、鼻にも唇にも容赦なく流れ落ちる涙を人差し指で拭いながら、彼を睨め付けた。
「…嫌なわけ、ないじゃない…」
「じゃあ」
彼は私の左手を、きゅっと握った。
「もう一度聞きます。結婚しませんか?」
「はい」
私はもう、その後何を食べたか、何を話したか、全く覚えていない。
ただ、私の指輪のサイズなんか教えたことがなかったのにやたらとピッタリのサイズだったことを問いただしたことだけは覚えてる。
「だから、そのアイオライト、買ったんじゃん。サイズ直しもして」
えー!?
つまり、この指輪は、私のサイズを知るために…!
私は、涙を流しながらご飯を食べた…多分。
そして、涙を流しながらお家に帰った。彼とふたりで。
翌日は土曜日で、私は朝まで彼と裸で抱き合って眠っていた。
こんなに幸せな気分なのは、本当に久しぶりだった。
まるで、付き合い始めたばかりの頃のようだった。彼のことしか頭になくて、ドキドキして、ちょっとした触れ合いで心拍数が上がるような、あの初々しい気持ちが思い出された。
目が覚めると、裸のままの彼が、スマホを見ながら笑いを押し殺していた。
「どうしたの?」
「これ、生徒から送られてきたんだけど」
私にもスマホを見せてくれる。
そこに映っているのは、どうやら彼が顧問をやっている生物部の生徒達らしい。女子4人、男子2人。それに、教師と思われる若い男性が2人一緒に映っている。
黒板はカラフルに彩られていて「長山先生 婚約おめでとう」と書かれていた。
「ながちゃーん、ご婚約おめでとうございます!」
登場人物達は、揃ってそう叫んだ後、別の映像に切り替わった。
たくさん机が並んでいて、そのうちの一つに聡太さんが座っている。どうやら隠し撮りだ。
生徒の女の子の声でナレーションが入っている。
「○月×日、ながちゃんの行動が変なのを、鈴木先生が気付きました。なんと、ぼーっとしながら指輪の箱をパカパカやっているんです!ほら」
確かに、遠くに映る彼の手元には何かがあって、それが規則的に動いている。
できる限りズームしてみると、ぼんやりながらも紺色の箱と、その中にあるきらっと光るものが映った。
「○月△日、鈴木先生が気づいて以来3週間が経ちましたが、まだながちゃんは同じ行動を繰り返しています。もうこれは、アレでしょう?」
「私たちが気づいていないと思っているかどうか知りませんが、ながちゃんのスマホの待受には、綺麗な女の人の写真があります。絶対そうです。彼女です」
「これはもう、プロポーズ間近なんでしょう!?」
そして、生徒達は顧問の先生、つまり聡太さんに詰め寄る。
「ながちゃん、いつプロポーズするのよ!?それ眺めてもう1ヶ月よ?」
「えっ!?」
めちゃめちゃ当惑する聡太さんに、後ろの方からスマホを構える先生…多分、件の鈴木先生の声が聞こえる。
「1ヶ月も何悩んでるんだよ」
そこからインタビューが始まる。
「まずはスマホの待受写真を見せてください。はい、正直に、この人は誰ですか?」
「あ、あの、彼女…」
うわーお。生徒達が奇声をあげる。
「どれくらいのお付き合いなんですか?」
「えっと…大学1年の時からだから…7年くらい?」
えー!?また生徒達がすごい声を上げる。
「そんなに放っておいて大丈夫なんですか?彼女に捨てられませんか?」
そしてさらに場面が変わって、私が賞を取った記事にクローズアップされる。
「鈴木先生と高橋先生の情報によると、ながちゃんの彼女はこの人らしいです。すごい人です。写真見ても美人です。才色兼備です。ホントに、早くしないと捨てられちゃうぞ!?」
最後のシーンは、なんとレストランに入っていく後ろ姿を撮られていた。
「気づかなかったわ。マジ盗撮!」
彼はひとしきり笑った後、真顔でスマホを眺めた。
「よく見られてるなあ…」
「ってか、愛されてるじゃん、『ながちゃん』」
私はそれを見終わった後、彼にくっついて近くから横顔を眺めた。
「…1ヶ月も前からこれ、用意してくれていたの?」
「うん…」
彼は、私の方に向き直し、布団の中で私をギュッと抱きしめた。
「実は、修二がみのりんにプロポーズするちょっと前に買った」
ああ、いい匂いがする。
「寸でのところで先を越されちゃって、どうしたらいいかわからなくなって遅れた」
「そうだったのね」
私の指には、右手薬指に菫色のアイオライト、そして左手薬指にコーンフラワーブルーのサファイアが光っている。
そのほかに今、身に纏っているものは、彼のぬくもりだけだ。
「私」
また涙が込み上げてくる。
「聞くのが怖かったんだ。このまんまでいいよって言われたらどうしようって思って、聞くのが怖かった」
「何言ってるんだよ」
彼は、もう一回私をギュッと抱きしめる。
「そろそろ約束の期日が来てるんだ。言ったじゃん、8年後には結婚しようって」
彼はちゃんと覚えていたのだ。
高校1年生だった私が大学に入って、卒業して、社会に出て、2年経って馴染んだ頃に結婚しようっていう、壮大な計画を…!
「もっとも俺、だらしないし、愛想尽かされてたらどうしようかなって考えなくもなかったけどね」
「それは、お互い様では…」
その頃には私の涙は晴れ上がった。晴れた空には、虹が出る。
「愛してるよ」
「ずっと一緒にいてね」
「うん」
私たちはそうやって、夢と現実の狭間を楽しんだ。これからは現実が夢になる。
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