【続編】歴史をたどるー小国の宿命(34)
室町幕府の最後の将軍だった足利義昭は、秀吉から貴人として厚遇されていた。
関東の後北条氏や東北の伊達氏はさておき、京都より西の戦国大名も抑え込む必要があった秀吉は、足利義昭の協力も得ながら、四国と九州の平定に力を入れた。
まず、四国は、長宗我部(ちょうそかべ)氏が支配していたのだが、本当であれば、織田信長が三男の信孝とともに、侵攻する予定だったのである。
本能寺の変について解説していたときの記事を思い出していただこう。
信長が本能寺にいたとき、秀吉は、中国地方に遠征中であり、毛利輝元と戦っていた。
秀吉は中国地方、明智光秀が秀吉の後方支援、信長は息子の信孝とともに四国を攻めるという役割分担ができていたのである。
ところが、本能寺の変で信長の四国攻めは実現せず、長宗我部元親(もとちか)は命拾いしたのである。
その長宗我部氏に対して、秀吉は、自分の弟の秀長を差し向けた。実は、このとき、秀吉は病気だったので、出陣できる状態ではなかったのである。
ただ、弟の秀長も、なかなかの戦上手であり、秀吉の心配をよそに、激しく抵抗した長宗我部氏を降伏させた。
こうして、四国は平定されたのである。
一方、九州では、薩摩国の島津氏が勢力を拡大し、豊後国(今の大分県)と筑後国(今の福岡県南部)の守護大名だった大友氏を、南から圧迫してきた。
1586年、大友氏は、豊臣家の傘下に入ることと引き換えに軍事的支援を懇願してきたのである。大坂城で大友氏と面会した秀吉は、秀長を九州平定のために派遣する。
大友氏の領内にすでに攻め込んでいた島津氏は、秀長軍に追われ、やむなく撤退したのである。
ここで、最後の将軍であった足利義昭の出番が回ってくる。
義昭は、島津氏に対して、1586年の12月に、講和を勧めた。島津義久は、義昭を主君として仰いでいたが、このときはまだ受け入れなかった。
翌年の2月と4月に、再び義昭は島津義久に勧告を行い、とうとう島津氏は、秀吉に降伏したのである。
さて、遠い東北地方では、伊達政宗が、秀吉と後北条氏の動向を注視していた。
秀吉の天下取りまで、あと3年。
このあと、いよいよ小田原攻めが始まるのである。
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