現代版・徒然草【97】(第125段・笑えない話)

いつの時代も、興ざめなことを言って、その場をシーンとさせてしまう変わり者はいるものである。

兼好法師の生きた時代にも、そういう人がいたようで、本段ではその人のことを批評している。

では、原文を読んでみよう。

①人におくれて、四十九日の仏事に、或る聖(ひじり)を請(しょう)じ侍りしに、説法いみじくして、皆人涙を流しけり。
②導師帰りて後、聴聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊とく覚え侍りつる」と感じ合へりし返事に、或者の云はく、「何とも候へ、あれほど唐からの狗(いぬ)に似候ひなん上は」と言ひたりしに、あはれも醒めて、をかしかりけり。
③さる、導師の讃めやうやはあるべき。 
④また、「人に酒勧むるとて、己れ先づたべて、人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方(ふたかた)に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を斬る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。
⑤剣にて斬り試みたりけるにや。
⑥いとをかしかりき。

以上である。

今日は、「笑えない話」ということだが、②と④の「或者」の話したことが分かれば、現代の私たちも共感できるだろう。

まずは、①の文で、どういった場面かを読み取ると、人に先立たれて四十九日の法事があったときに、お招きした坊さんの説法がすばらしくて、参加者が皆、感動の涙を流したわけである。

ところが、②の文のとおり、その坊さんが帰った後で、みんなが「いつもよりも尊く聞こえた」と感動を伝え合っているところへ、或者が「何はともあれ、あれほど中国の唐から来た犬に(顔が)似ていましたから、そりゃそうでしょうなあ。」と言ったものだから、その場の感動ムードが一気に冷めたわけである。

③では、そんなたたえ方があるかいなと兼好法師も言っている。

そして、その或者は、別の場でも、④の文のとおり、「人に酒を勧めるときに、自分が先に飲んでから人に酒を強いるのは、剣で人を斬るようなものだ。」と、不可解なことを言っている。

どういうことかを、その或者が続けて説明したわけだが、「(刀と違って)剣は両側とも切れるわけで、自分が(剣を)振りかぶったとき、頭を切ってしまう。だから、人を斬る前に自分が斬られて失敗する。自分が先に飲んで(酔っ払ってしまって)寝てしまうと、人に酒を勧められなくなるのも同じことだ。」と言ったのである。

だから、兼好法師は、⑤⑥の文で、「実際に剣で人を斬ろうとしたことがあるのだろうか。非常におかしな奴だ。」と批評しているのである。


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