歴史をたどるー小国の宿命(84)

1297年の「永仁の徳政令」は、歴史上初めての徳政令といわれている。

御家人たちが借金に苦しんでいるので、それを帳消しにするために北条貞時が発出したのだが、結論から言えば、これは失敗に終わった。

武家社会においては、源頼朝の時代からあったように、将軍に忠誠を誓って、将軍のために戦いに参加し、その戦いで戦果があれば、報酬(給料)として土地が与えられた。

与えられる土地というのは、どこから出てくるかというと、戦った相手の土地である。御家人たちは、戦いに勝利することで、自分の土地を増やし、そこで農業を営む人たちから年貢を取り立て、自分の収入源としていた。

ところが、当時の相続の仕方は、分割相続であり、結婚によって子どもや孫が生まれると、自分の土地は家族のために分配されることになっていた。

そうすると、数十年が経つと、当初より自分の土地の取り分は減っており、必然的に1人あたりの収入も少なくなる。

おまけに、二度の元寇に巻き込まれて、自腹で戦いにお金をかけてしまったものだから、御家人の生活は困窮したのである。

仕方がないから土地を担保に金融業者に金を借りるわけであるが、いわゆる高利貸しを相手にすると、利息だけでも返済はきつくなる。

そこへ徳政令が出されるのだが、無償で土地を取り戻せるルールができたことで、高利貸しからは不満が出る。

また、この徳政令で御家人が救われたように見えるが、実は、土地は取り戻せても、土地の質入れや売買が禁止されたのである。

ということは、今度はお金を借りようにも借りられないから、結局、何も変わっていないのと同じであった。

したがって、そのことについての不満が次第に大きくなっていき、倒幕の気運が高まるのであった。


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