現代版・徒然草【96】(第226段・平家物語の裏話)

兼好法師は、1280年代に生まれ、1350年代まで生きていたと言われている。

平家物語は、兼好法師が生まれる100年前に語り継がれていた。

1180年に幼い安徳天皇が即位し、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏一族とともに入水して亡くなったことは有名だが、その安徳天皇の後に即位したのが、異母弟の後鳥羽天皇であり、後に上皇になって承久の乱で北条義時に挙兵したことで知られている。

では、原文を読んでみよう。

①後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉れありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名(いみょう)を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部(しもべ)までも召し置きて、不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持(ふち)し給ひけり。
 ②この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。
③さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。
④九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。
⑤蒲冠者(かばのかんじゃ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。
⑥武士の事、弓馬の業は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。
⑦かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

以上である。

①の文のとおり、後鳥羽天皇の時代に、学識者として名が高かった信濃前司行長(=藤原行長)が、あるときに有名な漢詩文の「七徳の舞」をど忘れしたようで、五つしか言えなかったため、「五徳の冠者」とからかわれた。失意のうちに出家遁世した藤原行長を、天台宗のトップだった慈鎮和尚(=慈円)が面倒を見てくれたわけである。

②の文では、この慈鎮和尚との縁があってこそ、藤原行長は、自ら平家物語を作り、盲目の琵琶法師だった生仏に教えて弾き語りをさせたという。

③から⑥までは、平家物語の内容についてであるが、山門(=比叡山延暦寺)のことを詳細に書いていること、九郎判官(=義経のこと)について細かいことまで書いているのに、蒲冠者(=義経とともに平氏追討で活躍した源範頼)のことはよく知らなかったのか、多くの書き漏らしがあったという。武士のことや弓馬の武術については、生仏が東国出身だったので現地の武士に聞いたことが(平家物語に)書かれたという。

最後の⑦では、兼好法師が生きていた時代の琵琶法師(=ほとんど盲目だった)は、その生仏の東国なまりの声を記憶して語り継いでいると言っている。

ただ、兼好法師の記憶違いなのか、藤原行長は信濃前司ではなく、下野前司(=今の栃木県にあたる下野国の役人・下野守)だったと言われている。

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