現代版・徒然草【7】(第72段・賤)

今日は、「賤(いや)しい」がテーマとなる第72段を紹介しよう。

意味は、今と変わらない。「みっともない」という意味である。

では、原文をみてみよう。

賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽(せんざい)に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞(ことば)の多き。願文(がんもん)に作善多く書き載せたる。 多くて見苦しからぬは、文車(ふぐるま)の文。塵塚の塵。

兼好法師は、賤しい例として、7つ挙げている。最後の2文は、量が多くても見苦しくない例を2つ挙げている。

最初の「居たるあたりに調度の多き」というのは、座っている所の周りに、道具類が散らかっている様子を言っている。

昔は、椅子などなく、畳の上に座って過ごしていたわけだから、「居たるあたりに」という表現になる。

「硯に筆の多き」も同様である。今で言えば、筆箱から不要な鉛筆やペンまでも出して、机の上が雑然としているようなものである。

「持仏堂に仏の多き」は、仏壇に仏が何体もある状態である。1体で十分なのに、仏の加護を必要以上に求めているのが、賤しいのだろう。

「前栽に石・草木の多き」は、庭のある一軒家の場合、大きな石や丈の高い草木が所狭しと集中していると、みっともないし、見苦しいということである。

「家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。」は、どちらも、騒々しさ嫌っている。

家の中を子どもがギャーギャー走り回っていたり、誰かに会ったときにぺちゃくちゃおしゃべりが過ぎると、周りはやはりウンザリする。

「願文に作善多く書き載せたる」というのは、神仏に願掛けをするときに、自分の日頃の行いが良いことを紙に書いて列挙している人のことを言っている。

これだけ善い行いをしているのだから、願いを叶えてくれというのは、現代でも賤しいことである。

最後の「文車」というのは、本を運ぶ台車のようなものである。それ専用のものに、たくさん物を積むのは見苦しくはない、塵塚(ゴミ捨て場)も同様だということを言っている。

なるほど、と感心させられる9つの文である。



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