【続編】歴史をたどるー小国の宿命(98)

時代が変わっても、それまでの慣習が否定されず、力を持った者が支配する世の中であれば、これほどまでの悲劇は起こらなかったかもしれない。

1877年の西南戦争は、旧薩摩藩出身の士族らによる、明治新政府との最後の戦争だった。しかも、九州全体で戦いが繰り広げられた大規模なものであり、収束には半年以上もかかった。

1876年に明治新政府が発表した「廃刀令」は、江戸時代の幕末に生きた元武士の士族たちにとっては、大きな精神的ダメージとなった。

すでに文明開化が起こり、庶民の多くも西洋人のマネをするようになる中で、鎌倉時代以来700年間もずっと続いてきた武士の特権だった帯刀が、とうとう否定されたのである。

そして、もはや武器は、従来の刀では勝てず、西洋式のピストルもしくは銃が中心であった。

西郷隆盛は、政界から退いた1873年に、地元に戻ってすぐ、九州各地に私学校を建てた。

この私学校には、西郷とともに中央政府の役人を辞めたり、明治政府の政策に不満を抱いたりしていた九州出身の士族らが集まり、また入学する青少年たちにも将来を担う人材育成の目的のために教育が行われた。

その私学校の教員や生徒が九州各地で団結すると、中央政府にとっては非常に脅威となることは、明白な事実であった。

彼らの威力を削ぐための廃刀令だったとしても、九州には銃の弾薬倉庫などがまだ多数残っていた。

もともと戊辰戦争も、薩摩藩の策略で火がついたわけであり、血気盛んな士族の不満がピークに達したとみた新政府側は、1877年2月に山縣有朋(やまがた・ありとも)を総司令官として軍を差し向けた。

山縣有朋は、長州藩の出身であった。7ヶ月にわたって、今の鹿児島市城山町まで西郷陣営を追い詰めたとき、山縣は西郷に自決を勧める手紙を送った。

西郷への手紙には、西郷を思いやる山縣の気持ちがよく表れており、もとは周りの士族が起こした反乱であり、西郷は担ぎ出されただけではないのかという主旨が書かれていたという。

このとき西郷は49才、山縣は39才であった。

西郷からの返事はなかったが、山縣が手紙を送った翌日、周りの士族に「もう、ここらでよか。」と言って切腹した。9月24日のことだった。

西郷の自決によって、西南戦争は終結した。

そして、1879年には、1872年に発布されたばかりの学制が廃止され、新たに教育令が施行された。

ここから中央集権化が本格的に進んでいったのである。





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