古典100選(28)建礼門院右京大夫集
今日は、昨日の記事つながりで、藤原定家の父親だった藤原俊成のことが書かれている『建礼門院右京大夫集』(けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう)を紹介しよう。
ただ、予備知識がないと何のことやら分からないので、ちょっと解説しておこう。
建礼門院右京大夫というのは、女性の歌人の名前である。
平家滅亡が決定的となった1185年の壇ノ浦の戦いで、幼い安徳天皇が入水して亡くなったのは、多くの人は知っているだろう。
その安徳天皇を出産した平徳子(=平清盛の娘)が高倉天皇の皇后だったとき、建礼門院右京大夫は当時16才ながら仕えていたのである。
建礼門院右京大夫は、安徳天皇の死後も生き永らえて、藤原俊成が90才の誕生日を迎えたときもまだ生きていた。といってもそのときは47才だった。
彼女は、藤原俊成が1203年に90才のお祝いを受けたときの様子を、贈答された和歌とともに書き綴っている。
では、原文を読んでみよう。
建仁(けんにん)三年の年、霜月の二十日余り幾日(いくか)の日やらむ、五条の三位(さんみ)入道、九十に満つと聞かせおはしまして、院より賀(が)賜はするに、贈り物の法服の装束の袈裟に歌を書くべしとて、師光(もろみつ)入道の女、宮内卿の殿に歌は召されて、紫の糸にて、院の仰せごとにて、置きて参らせたりし、
ながらへて 今朝ぞうれしき 老いの波
八千代をかけて 君に仕へむ
とありしが、賜はりたらむ人の歌にてはいま少しよかりぬべく心のうちにおぼえしかども、そのままに置くべきことなれば置きてしを、「今朝ぞ」の「ぞ」文字、「仕へむ」の「む」文字を、「や」と「よ」とになるべかりけるとて、にはかにその夜になりて、二条殿へ参るべきよし仰せごととて、範光(のりみつ)の中納言の車とてあれば、参りて、文字二つ置き直して、やがて賀もゆかしくてよもすがら候ひて見しに、昔のことおぼえて、いみじく道の面目なのめならずおぼえしかば、つとめて入道のもとへ、そのよし申しつかはす。
君ぞなほ 今日(けふ)より後も 数ふべき
九(ここの)かへりの 十(とお)の行く末
返事(かへりごと)に、「かたじけなき召しに候へば、這ふ這ふ参りて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに、かやうに喜び言はれたる、なほ昔のことも、もののゆゑも、知ると知らぬとはまことに同じからずこそ」とて、
亀山や 九かへりの 千歳(ちとせ)をも
君が御代(みよ)にぞ 添え譲るべき
以上である。
建仁三年とは、1203年のことであり、「霜月の二十日余り」と書かれているので、11月に祝賀会が行われたことが分かる。
おもしろいのは、お祝いに贈る法服の袈裟に、和歌を刺繍で建礼門院右京大夫が縫ってあげていたのである。
それを「ぞ」「む」の2文字は、「や」「よ」に改めたほうがよいという指示を受けて、縫い直したのである。
紫の糸で刺繍した、というのも興味深い。
何よりも、この時代に90才まで藤原定家の父が長生きしていたのが驚きである。
藤原俊成は、この祝賀会が行われた翌年の冬に、91才で亡くなった。
俊成がいたからこそ、定家も活躍できたのだ。
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