古典100選(50)中務内侍日記

今日で、折り返しの50回目である。

昨日の『松陰中納言物語』のほうは、長い文章で読みづらく感じた人もいたことだろう。

古文というのは、それなりに読み書きができて教養も深い人が書いているものなので、それらの作品を理解するためには、当然、読み手の側も、時代背景や当時の人々の生活に関する知識は必要であり、私たちが理解できないということは、それだけハイレベルな知識を要するということである。

逆に、私たちの書いた文章を、時代背景も知らない平安時代の人が読んでも理解されないことを考えれば、悲観的になる必要はない。

今日は、一文ごとにナンバリングしてみた。「日記」なので、登場人物は実在の人物である。

鎌倉時代の伏見天皇の治世に、女官として仕えていた藤原経子(つねこ)が書いた『中務内侍(なかつかさのないし)日記』である。

では、原文を読んでみよう。

①世に経(ふ)れば何となく忘れぬ節々(ふしぶし)も多く、袖も濡れぬべきことわりも知らるるこそ、かはゆくおぼゆれど、ことに弘安六年四月十九日、例の嵯峨殿の御幸(ごこう)なりて還御(かんぎょ)なる。
②御夜の後、東宮の御方、土御門(つちみかど)の少将ばかり御供にて、院の御方ざまに忍びて御覧ぜらるる。
③南殿の花橘(たちばな)盛りなる頃なれば、「香をなつかしむほととぎすもや」と待たせおはしますに、心尽くしの一声も飽かず恨めし。
④その頃、左中将、なにごとにかありけん、籠もりて久しく参らざりけるに、「有明の空に鳴きぬる一声を、寝覚めにや聞くらん」など、かたじけなくも思し召し出づるは、「夢の中にも通ふらんを」と思ひやらるるに、 

思ひやる    寝覚めやいかに    ほととぎす
鳴きて過ぎぬる    有明の空

と御気色(けしき)あれば、内侍殿、たどたどしきほどの有明の光に書きて、花橘に付けられたり。 
⑤さるべき御使ひもなくて、明けぬべければ、土御門の少将、人も具せずただ一人、馬にて行きぬ。
⑥手づから馬の口をひきて門を敲(たた)くに、とみにも開けず、空は明け方になるも、あさましくをかし。
⑦門を開けぬるに、思ひよらずあきれたりけんも、ことわりなり。
⑧さらぬ情けだに、折からものは嬉しきに、かしこき御情けも深く「色をも香をも」と思し召し出づるも、御使の嬉しさはげにいかなりけん。
⑨同じ類(たぐい)ならん身は、げにいかでかうらやましからざらん。
⑩ありがたき面目、生ける身の思ひ出でとぞ、よそに思ひ知られて侍りし。
⑪ほのぼのと明くるほどにぞ、帰り参りたる。

宮の内    鳴きて過ぎける    ほととぎす
待つ宿からは    今もつれなし

以上である。

①の文にある「弘安6年」とは、元寇があった「文永・弘安の役」の「弘安」だから、1283年のことである。

北条時宗が亡くなる1年前であり、このとき伏見天皇はまだ18才で皇太子だったので、「東宮」と呼ばれていた。

だから、②の「東宮の御方」が皇太子時代の伏見天皇ということになる。

そして、花橘(はなたちばな)が③に出てきて、その香りやほととぎすの鳴き声が話題になっているが、古今和歌集にも次の和歌が、夏の歌として収録されている。

五月待つ    はなたちばなの    香をかげば
昔の人の    袖の香ぞする

ほととぎすは、現代の私たちに馴染みのあるカッコウのことであり、夏が近くなると日本に渡ってきて鳴き声が聞こえることから夏鳥である。

ほととぎす    鳴きつる方を  ながむれば
ただ有明の    月ぞ残れる

この有名な百人一首は、藤原定家が1241年に亡くなる前にすでに知られていたわけで、有明の月(=夜明けの月)とほととぎすは、昔の人には欠かせないキーワードだったのである。

花橘に関しては、現代の私たちがもし親しめる歌があるとすれば、「い〜ら〜か〜の波と〜」という歌い出しで始まる『こいのぼり』の歌詞の中の「タチバナ薫る朝風に」という部分であろう。

旧暦では4月だが、この日記は、まさに初夏の頃に書かれたものなのである。

4月は「鳥待月」とも呼ばれる。

こうした知識があることを前提として書かれた日記を読むには、文法理解だけでは不十分なことが分かるだろう。

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