20世紀の歴史と文学(1909年)

1909年は、日本にとって衝撃的な事件が起こった年である。当時のことを学校などで学んだ韓国の人たちの記憶にも残っていると思うので、私たち日本人もしっかりと覚えておく必要があるだろう。

1909年10月26日、東清鉄道(=ロシアが1901年に敷設した)の現中国ハルビン市内のハルビン駅のホームで、伊藤博文が、韓国人の安重根(あんじゅうこん)に3発の銃弾で射殺された。

伊藤博文といえば、日本が歴史上初めて内閣制度を創設した1885年の初代内閣総理大臣であり、幕末は長州藩出身の藩士だった。

日露戦争が終わって、日本が朝鮮半島を統治する権限を持ったとき、現地に韓国統監府が置かれ、伊藤博文は初代統監に就任した。

伊藤博文は、韓国(=当時は大韓帝国)の統治に関しては、占領ではなく、韓国人が自ら国力を高めて自治ができるようになるまで保護国化するのが良いという考え方であった。

ただ、当時の政治家の中には、同じ長州藩出身の山県有朋など、中国大陸への領土拡張を主張する陸軍関係者もいた。

彼らは、のちに韓国を併合してさらなる大陸進出を目論んでいたのだが、韓国併合に伊藤は否定的でしばしば対立した。

そして、韓国国内では、親日派と反日派の両グループがあったわけで、反日派はやはり日本が韓国を植民地化しているとの反発があり、初代統監に就任した伊藤は敵視されることになった。

反日派は、親日派よりも多く、日本政府の統治政策に対して暴動が起きたのも事実である。

ただ、当時の日本政府が大韓帝国に対して力を入れたのは、身分解放と学校教育であった。

それは、身分の低い人でも誰もが教育を受けられるようにしようという意図があってのことで、教育現場においても、第一言語は朝鮮語が教えられた。

しかし、大韓帝国が1897年に成立するまでは、1392年から500年もの間、李氏朝鮮という王朝国家のもとで、良民と賤民という身分制度によって教育の機会均等は図られず、賤民に位置づけられた人は学校に行けなかったのである。

この旧来の制度を否定される形になった特権階級の人は反発するわけであり、日本のやっていることは内政干渉だとみなすわけである。

逆に、親日派としては、韓国よりもいち早く文明開化によって、欧米列強と対等にわたり合えるようになった日本の成長に尊敬の念を抱き、自分たちも日本のように国力を高めていきたいという思いがあったのである。

明治期の終わりから双方の認識に隔たりがあり、現代に至ってもなお、日韓の歴史認識の溝は埋まらないのはそういうことである。

忘れてはならないのは、日本は、明治時代よりも前に、秀吉が朝鮮出兵したという歴史的事実がある。また、古代には朝鮮半島からの渡来人によって、文化的恩恵も受けている。

そういったことを総合的に踏まえて考えれば、アメリカやロシアよりも、ずっとずっと長い古くからの隣人として友好関係は維持していくべきだと思うのだ。



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