【続編】歴史をたどるー小国の宿命(82)

1863年は、薩摩藩とイギリスの戦争(=薩英戦争)だけではなく、もうひとつ、下関戦争も起こった。

薩英戦争が起こる3ヶ月前の5月、長州藩は、関門海峡を通過する外国船に砲撃をしたのである。

ただ、こちらも経緯があって起きたことであり、幕府と朝廷の関わりもあった。

このシリーズの7月の連載では、幕末最後の天皇だった孝明天皇の話をした。

孝明天皇は、攘夷派であることも触れた。

その孝明天皇が、当時の第14代将軍の家茂に対して、強く攘夷を迫ったのである。

孝明天皇が、日米修好通商条約に朝廷の勅許も得ずに勝手に調印した井伊直弼に激怒したことも7月に触れているが、この孝明天皇の対応に同調して、急進的な尊王攘夷派となったのが長州藩であった。

朝廷から幕府には、勅使の三条実美が派遣され、将軍・家茂は、歴代将軍としては実に229年ぶりに上洛して、孝明天皇と対面した。

ちなみに、229年前に上洛した将軍は、3代将軍の家光である。

このときは、参勤交代が制度化され、家康や秀忠が築いた権力基盤が確固たるものになったため、全国の大名や朝廷への権力誇示の意味合いが強かった。

ところが、家茂の時代は、立場が逆転していたわけである。

実は、生麦事件が起こった1862年に、家茂は、孝明天皇の妹(=和宮)と結婚している。

生麦事件と関係があるわけではないが、もともとこの政略結婚は、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の策略だった。

井伊直弼は、孝明天皇とは真逆の立場であり、開国派である。

しかし、朝廷に追随して攘夷派が拡大することを懸念した井伊直弼は、公武合体策を打ち出し、孝明天皇の妹を将軍の妻に迎えることで、攘夷派の幕府への攻撃をかわそうとした。

ただ、その井伊直弼が暗殺されたのと、孝明天皇が自分の妹を将軍に嫁がせることに難色を示していたことから、結婚の実現は少し遅れた。

幕府は、イギリスをはじめ諸外国の圧力と、国内の攘夷派の攻撃のはざまで苦しい状況下にあった。

そんな中で、孝明天皇に和宮の結婚を認めさせるため、幕府は、近いうちに鎖国政策に戻すことを約束したのである。

以前の鎖国状態に戻してくれるならばと、孝明天皇は家茂と和宮の結婚を認めたが、幕府が約束を守れるはずがなかった。

そして、孝明天皇は、公武合体派と尊王攘夷派の争いに巻き込まれることになったのである。








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