【続編】歴史をたどるー小国の宿命(41)

いよいよ江戸時代の始まりである。

信長も秀吉もすでにこの世にいない中で、家康が待ちに待った天下統一を果たしたわけである。

これまでの流れを再確認すると、石田三成は、関ヶ原の戦いで家康に敗れたため、京都で処刑された。

上杉景勝と直江兼続は、家康に謝罪しに出向いたことで許しを得て、その後、20年ほど生き延びた。

直江兼続は1620年に60才で、上杉景勝は1623年に69才で亡くなった。

そして、信長のもとで秀吉が活躍していたときはまだ10代の青年だった毛利輝元は、関ヶ原の戦いでは石田三成の率いる西軍に属しながらも、大坂城から一歩も動かず、結果的に処刑を免れ、1625年まで生き延びて72才で亡くなった。

一方で、家康は、毛利輝元より9年早い1616年に亡くなったものの、75才まで生きたのである。

そんな家康だが、1603年に江戸幕府を開いてから2年後には、あっさりと息子の秀忠に、将軍の座を譲ったのである。

その任期は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍だった源頼朝(約7年)よりも、室町幕府の初代征夷大将軍だった足利尊氏(約20年)よりも、はるかに短かった。

だが、息子の秀忠に将軍職を譲ったのは、これからの時代は徳川家が国を統治するのだということを世に広く知らしめる意味もあった。

2代将軍として、秀忠が将軍の座に就いた2年後(=1607年)には、家康は駿府城(今の静岡県)に移り住んで、大御所としての存在感を示した。

そして、息子の秀忠を間近で支えながら、徳川家の権力基盤を固めていったのである。

1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのを見届けた翌年に亡くなったわけだから、本当に強運の持ち主であった。

秀吉の朝鮮出兵によって、国交が断絶された李氏朝鮮とも、関係修復を実現させた。

家康が遺したものは、大きかった。

約260年続いた江戸幕府の土台を築いた家康と秀忠の将軍時代(1623年まで)を、明日以降も引き続きお楽しみいただければ幸いである。




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