【続編】歴史をたどるー小国の宿命(68)

吉宗が、将軍在職中に最も力を入れて取り組んだのは、「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)の制定であった。

御定書というのは、読んで字のごとく、「きまり」すなわち法律である。

大岡忠相が町奉行の役人として、吉宗の改革の担い手となったのは、昨日の記事で触れた。

江戸幕府には、町奉行のほか勘定奉行と寺社奉行があり、これらをまとめて「三奉行」と呼んでいた。

勘定奉行には、綱吉の時代に活躍した荻原重秀が所属していたことは、先週触れたとおりである。

荻原重秀の業績からも分かるように、財政に関する職務が与えられていたが、このほかにも幕府の直轄地(=天領)の訴訟関係も勘定奉行の仕事だった。

吉宗は、1721年にこれらの仕事を公事方と勝手方(かってがた)に分けて、勝手方が租税出納や財政の担当、公事方が訴訟担当になったのである。

そして、今で言う民事訴訟法や刑事訴訟法につながっていく「公事方御定書」の編纂を命じたのである。

ここで、三奉行の訴訟担当について念のために説明すると、町奉行は江戸の町人たちの訴訟担当、勘定奉行は幕府の直轄地(江戸以外にも直轄地は全国にある)での訴訟担当、寺社奉行は寺社(=神社やお寺)の関係者の訴訟担当であった。

江戸の町人たちは、町奉行の役人のことを「御(ご)奉行様」と呼んでおり、町奉行所のことを「御番所」と呼んでいた。

現代の私たちからすれば、江戸の町奉行とは、東京都の警察・消防・司法を担当している公務員にあたるのである。

吉宗は、町奉行の管轄よりさらに広い管轄となる勘定奉行の幕府直轄地での訴訟について、中国の明(みん)の法律を参考にしながら、約20年間、上巻と下巻から成る基本法典を作り上げたのである。

上巻は、警察や刑罰に関するものであり、下巻は旧来の判例などを整理して103箇条にまとめられた。

これまでは、犯罪者には死刑か追放のどちらかの処罰を与えるものであったが、吉宗は、この公事方御定書の制定において、従来にはなかった「更生」の道も開いたのである。

続きは、明日である。現代にも通じる吉宗の改革は、実にすばらしいものである。



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