【続編】歴史をたどるー小国の宿命(43)

駿府城の家康と江戸城の秀忠に謁見した琉球王国の尚寧王は、往路こそ東海道経由だったものの、帰路は中山道経由で戻った。

中山道は、現在もそうであるように、山道を歩くことになり、特に群馬県と長野県の県境には碓氷峠があって、難所の一つとなっている。

そんな道を、47才という当時としては高齢の身だった尚寧王は1年かけて沖縄県まで戻った。飛行機もない時代だから、本州からは船で移動した。連行から帰国まで丸2年を費やしたのである。

やっと自分の国に戻れても、それまでは琉球王国の領土だった奄美群島は、薩摩藩に割譲されることになった。

これによって、奄美群島は今では鹿児島県に属する島々となっている。

つまり、江戸時代初期のこうした出来事が起こらなければ、奄美群島や沖縄諸島が日本の領土になっていたかは分からなかった。

ここで、薩摩藩の島津氏の立場で考えると、後日解説する参勤交代でもそうだが、江戸に赴くまでの旅費や、戦をするための戦費が、他の大名たちに比べて莫大な額になることは容易に想像できよう。

一方で、琉球王国は、日本や明(=中国)の貿易のための航路の中継地となっており、「中継貿易」で財政が潤っていたのである。

琉球王国は中国から物を買い、それを日本に対して売る。この売買の差額で儲かっていた。その財源に、島津氏は目をつけたのである。

さて、ここで室町時代を思い出してほしい。

中国の明は、室町幕府の3代将軍だった足利義満が10才のときに建国された。琉球王国は、明が建国されてから約60年後に成立し、そこから、明治時代初期まで450年も存続していたのである。

島津氏の侵攻を受けたとはいえ、滅亡したわけではなく、日本の属国になった。

琉球王国ほどではないが、中国の明は、1644年まで約280年間も存続していた。

日本が戦国時代で、信長や秀吉が活躍していた頃、朝鮮半島は李氏朝鮮が1392年から国として独立しており、安定状態が続いていた。

このバランスが崩れたのが、秀吉による朝鮮出兵から江戸時代初期にかけてであることは、ポイントとしておさえておいたほうが良いだろう。

このような状況の中、江戸幕府は鎖国政策を取ることになる。大名に参勤交代をさせたのも、鎖国政策を取ったのも、誰あろう3代将軍の家光だったのである。





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