【続編】歴史をたどるー小国の宿命(84)

第14代将軍の家茂と結婚した、孝明天皇の妹の和宮は、結婚当時16才で家茂と同い年であった。

家茂は、結婚の翌年(=1863年)、孝明天皇と対面するために上洛したわけだが、この家茂の上洛の際の警護役として、事前に浪士が募集された。

集まった浪士の数は200人ほどであったが、実は、この浪士たちの中から「新選組」が誕生したのである。

実際、浪士たちは、家茂の上洛に先駆けて江戸を出発しており、中山道を通って京都に向かった。

この浪士の集団は浪士組と呼ばれ、その浪士たちの中から浪士取締役も何人かが任じられた。

実は、この浪士たちを前衛として率いた、一人の志士がいた。

庄内藩出身の清河八郎(きよかわ・はちろう)である。

清河八郎は、吉田松陰と同い年の1830年生まれであり、この当時は、33才の青年であった。

彼は、桜田門外の変で井伊直弼が水戸藩の浪士たちに暗殺されたのを知り、そこから全国を遊説して尊王攘夷の思想を広め、特に、土佐藩や長州藩以外の九州の志士たちを京都に呼び寄せた。

その上で、幕府が募集した浪士組の中から何人かをひそかに京都市中に集めて、将軍の警護ではなく、天皇のもとで倒幕を目指すことを働きかけたのである。

この密計はすぐにバレて、清河八郎はほどなく幕府の刺客に暗殺された。

だが、幕府の呼びかけで江戸に戻った浪士組の人数は、将軍の上洛時より減っており、一部の浪士たちは京都にとどまった。

この浪士たちが、のちに活躍する近藤勇や土方歳三らであった。

京都残留の近藤ら浪士の一部は「新選組」のメンバーとなり、江戸に帰還した浪士組の呼び名は「新徴組」となった。

こうして、浪士組は方向性の違いから江戸と京都で分かれるのだが、そこへ長州藩の高杉晋作や桂小五郎、土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎が絡んでくるのである。

中岡慎太郎は、土佐勤王党に所属していたが、薩摩藩の島津久光の暗殺計画にも関わっていた。(計画は失敗に終わり、島津久光は明治時代まで生き延びている)

朝廷と幕府の間では、多くの幕末の志士たちが、さまざまな人間関係や事件の経過の中で東奔西走することになり、まさに時代は混迷を極めていたのである。








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