【続編】歴史をたどるー小国の宿命(40)

家康が、直江兼続の書状の内容に激怒し、上杉景勝のいる会津征伐を決意したのは、1600年の5月3日であった。

上杉景勝は、亡き上杉謙信の養子であった。この年、上杉景勝は44才、家康は57才だった。

家康の会津征伐にあたって、勅命を出した第107代の後陽成天皇は、このとき29才だった。

家康は、会津に向かう途中、7月初旬に江戸に立ち寄る。このとき、上杉景勝を北の方から叩くために、伊達政宗と出羽国(今の秋田県と山形県)の大名だった最上義光(もがみ・よしあき)に、上杉追討の依頼の手紙を出す。

もちろん、協力してくれたら褒美として土地を与えるという約束もした。

そして、家康自身も南側から挟み撃ちする形で、7月下旬には、下野国(今の栃木県)の小山(おやま)まで北上するのだが、ここで石田三成挙兵の知らせが届くわけである。

家康は、この小山で緊急会議を開き、上杉景勝との戦いを取りやめて、西の方に戻ることにした。

家康は、息子の秀忠(のちの江戸幕府2代将軍)とともに、二手に分かれて西進するのだが、秀忠は中山道(なかせんどう)経由で、自身は東海道経由で、岐阜・愛知方面を目指した。

その間に、石田三成率いる西軍は10万人規模に拡大していたが、実は、家康は事前に根回しをしていたのである。

あらかじめ、自分の方に寝返りそうな何人かの大名に手紙を出して、石田三成との戦いに協力するよう依頼していた。

さて、この根回しの成果が1ヶ月後の9月初旬に表れてくるのだが、家康は、頃合いをみて9月1日に江戸を出発する。9日に生まれ故郷の岡崎に入り、13日には岐阜入りした。

すでに近畿地方は西軍の支配下にあり、家康の動きを察知した石田三成は、今の岐阜県の関ヶ原に軍を差し向けた。

こうして、9月15日、関ヶ原の戦いが始まったのである。蓋を開けてみれば、毛利輝元は、大坂城から一歩も動かなかった。そして、五大老の一人である小早川隆景の養子であった小早川秀秋は、家康の率いる東軍に寝返った。

西軍の劣勢は決定的となり、関ヶ原の戦いは1日で終わり、東軍の勝利となった。

石田三成と小西行長は、京都の六条河原で処刑された。上杉景勝と直江兼続は、その翌年7月に上洛し、家康に謝罪する。

家康が初代征夷大将軍として、江戸幕府を開いたのは、さらに2年後の1603年のことだった。






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