歴史をたどるー小国の宿命(85)

北条貞時が、永仁の徳政令を発出して3年後、西暦1300年を迎え、13世紀が終わった。

1301年から14世紀がスタートするわけだが、それと同時に、鎌倉時代が終わりを迎えることになる。

貞時は、三十路を迎え、1301年に執権の座を降りた。そして、その10年後に41才で亡くなった。

その頃、京都の朝廷では、1308年に即位した第95代の花園天皇が14才になり、元服した。

花園天皇は、和歌と書道に優れた聡明な天皇であった。21才になったとき、次代の後醍醐天皇に譲位した。

花園天皇と後醍醐天皇は親子でも兄弟でもなく、それぞれ皇室の系統が異なっていた。

花園天皇は、持明院(じみょういん)統に属しているが、後醍醐天皇は大覚寺(だいかくじ)統である。

実は、元寇が起こるだいぶ前から、異なる皇室の間で確執があり、鎌倉幕府がその仲裁を図っていたのである。

確執のきっかけは、今も昔も同じように、遺言問題である。

そのことについてはまた機会があれば触れるとして、花園天皇の時代は、まだ平和であった。

1318年、後醍醐天皇が即位して、あの後鳥羽上皇が起こした承久の乱以来、およそ100年ぶりに、鎌倉幕府は危機を迎える。

次週は、いよいよ第96代の後醍醐天皇の登場である。






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