【続編】歴史をたどるー小国の宿命(72)

家斉が将軍職に就いていたのは、1837年までである。

こんな将軍の治世など最悪だと思われる方もいるかもしれない。

しかし、こんな将軍の時代に、有名な文学作品が世に出たし、幕末の志士が次々にこの世に生を受けたのである。

このnoteでも以前に連載したが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版されたのが1802年である。

この『東海道中膝栗毛』の出版の前後には、本居宣長の『古事記伝』や、小林一茶の俳句が世に出ている。

1811年には佐久間象山が誕生し、1823年には勝海舟がこの世に生まれた。

1828年に西郷隆盛、1830年に吉田松陰、1833年に桂小五郎、1836年に坂本龍馬が生まれたのである。

家斉が将軍職を次男の家慶(いえよし)に譲った1837年は、最後の将軍・徳川慶喜が生まれた年であり、その2年後に、高杉晋作が生まれた。

勝海舟をはじめ、1820年代以降に生まれた人たちは、のちに日本中が大騒ぎになる黒船来航の年には、20〜30代の青年になっていたわけである。

佐久間象山は、勝海舟よりも早くに生まれた人であり、幕末の志士の中では、一番の年長になるが、徳川慶喜に招かれて、慶喜の前で公武合体論と開国論を説いたことで有名である。

だが、その後まもなく、反対派に暗殺された。

佐久間象山は長野県の出身であるが、1851年には、江戸で「五月塾」を開き、そこに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬たちが入門した。五月塾で、象山は、砲術や兵学を教えたのである。

ちなみに、勝海舟の妹は、佐久間象山と結婚している。

佐久間象山が開国論を唱えるようになったのは、何がきっかけだったのだろうか。

そして、徳川慶喜、勝海舟や坂本龍馬が、佐久間象山に教えを請うということは、彼らも同じような国家観を持っていたということである。

悪化の一途をたどる幕府の財政よりも、もっとスケールの大きなことを考えていた彼らがいたからこそ、日本は欧米の仲間入りを果たせたのではないだろうか。

事実、家斉は、1825年に異国船打払令を出すほど、対外政策については強硬策を取っていた。

佐久間象山は、このとき14才だった。

彼が目の当たりにした幕政は、日本を変えていかねばという決意のきっかけになったことだろう。

明日は、1830年代に入っていくことにする。




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