「記」 of 2018.
手帳にいろんなことを、ほぼすべて官能的直感的記述的に記しているから、手帳をみればいろんなことがわかるのだけど、いつも面白いなぁと思うのは、年始に立てた目標に関して、その年が終わる頃には「こんなくだらないことが、ほんの12か月ほど前まで、わたしにはしごく大事だったんだなぁ」と、ある種の郷愁&感慨とともに思うこと。
わたしはよく目標を立てるタイプだしそれを記すタイプだから、昔も部屋に目標を貼っていて、それは3年計画だったのだけども総じて「出版」とそれによる「成功」と、直木または芥川に向かっての「受賞」に向かうものであって、それらはなんだか、おばあちゃんが死んで、おじいちゃんが死んでアラビヤに行ってシャルジャの天文学の部屋で叡智の雷に打たれてからは、
心の底からどうでもいいものになってしまって、抜け殻だけが部屋に貼ってあるのも情けなく、しかしこういう心の推移に気づくのは面白いことと、とりあえず「うん」と思って、それから剥がしてしまった。
それから恥ずかしい目標(目標自体が恥ずかしいのではなく回顧した時、深夜に書いたラブレター的な恥ずかしさがあるやつ)は書かないでおこうと思ったのだが、それでもやっぱり、回顧してみるともう、その頃ではないわたしになっていて、その目標が噛み合わない。今年の手帳は冒頭に強い決意として「芸術で富を成し、**(愛しているひとの名前)と婚姻する」と書いている。「富」としているのは成功を欲しているのではなくあまりに小説、仕事の小説を書かなすぎてお金がなくなりすぎたからそれではいかんと言う意味であるのだが、しかしまたこの年末には、この宣言は二つとも目標としてはどうでもよくなってしまっていた。今回は恥ずかしい目標と言うよりは、それらはもう、わざわざ書き記さずとも傍にあるものであって、生涯寄り添っていくものであって、その決意が丹田にあれば形など必要ないという結論に至ったからである。形が必要ないのであるから、そない頑張って手帳の冒頭に刻む必要もない。
昨日の満月で感じたこと。それは何かが「環」になりつつある感覚。
日々神社に参っていれば、願い事もなくなり、挨拶と感謝だけが残るのと同じように、新月満月と繰り返してきたわたしの昨日はとても穏やかで、これを除去したいと思うような心の澱も、これを絶対離したくないみたいな切実な願いも、何もなかった。2018年の5月15日の新月から決意を持って始めたこと、始まったことが、返し縫いのように、少しづつは下がったりしながらも、しかし実になり始めている気がする。
特に、出会ったすべてのモノや人を、じぶんから手放す決断はずっと出来ないでいたわたしが、自ら決断し幾つかのものーー中には長く携わってきた仕事などを含めーー手離す決断をし実行に起こしたというのは一つの革命ではなかったかと思う。あと求めるのではなく覚悟を決めて寄り添う恋愛を知ったことも。恋愛というかそういうのを愛というのだろう、覚悟が決まっているから相手に要求すべきことがマジで何もないという静けさを知った。
まさに恋は凹凸、愛は凪。笑。
「ねえ、この音楽はさ、わたしが生んでいるものなの、それともこれが生んでいるものなの?」手回しオルゴールを奏でながら4歳の友人がわたしに尋ねた。「両方じゃないかな」わたしは答えた。
楽器だけでも、あなただけもこの音楽は生まれない、
まるで、あなたのようだね、パパとママがいて初めて存在する、
あなたは音楽みたいなものだねぇ。
言ってみて、あまりにその通りでハッとする。
そうだ命はまるで音楽のようなものなのだと。
誰かと誰かが関わり、愛が発生して音楽が生まれる。
でも2018年にわたしが学んだことは、けれども音楽は生まれる前からそこに在るのだということ。わたしたちは、誰か、がいなくとも、
生まれながらにして音楽であり、美しい惑星なの。
リンゴ in カルバドス ^- ^
わたしは楽園から追放されても、智慧の実を、食べたい。
我々がどこからやってきたのか、知りたい。
<「記」of 2018 >
嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ