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【探究の中間報告】どうすれば「“誠”ができている」と言えるのか

本稿は、
自分がこれまでの人生でやってきた実験をもとにした考察です。

おかしなことをしている人の漫談と受け取っていただいても良いですし、
「真面目」実践の一事例として眺めていただいても良いです。

どうすれば「真摯に」「誠実に」やっていることになるのか

このテーマは、長年わたしが模索していたことです。

動機は複雑です。

仕事を他者ひとに丸投げしてスマホゲームをしているような輩に
「真面目にやれよ〜」とか言われたくない、という意地だったり、

自分自身が、物事に対して
浅薄せんぱくな理解で迂闊うかつなことを言いたくない、という廉恥心れんちしんだったり、

心の師匠が称賛した、
「深刻で霊活れいかつな、限りない感激のこもった荘厳そうごんなる学問」の世界の側に身を置きたいという憧憬しょうけいだったりするのですが、

私自身は、なかなか散漫になりがちで、
ふとした時に
「真摯で誠実なキャラクター」らしくいられていない時間を
自覚しては悄然しょうぜんとする、
と言うことを繰り返してきました。

理想と現実のギャップが「問題」になるというのは
誰の言葉だったか失念してしまったのですが、

どうしたら、
「真摯に、誠実に、深刻で霊活」な状態でいられるのか、
何をしていれば、そうだと言えるのか…

そもそも
真摯ってどういう状態?
どうすれば“誠”をやっていることになるの?


というのが、
私にとっての、長年の大きな「問題」になりました。

本で読んで得たヒント


中国古典の『中庸』には、
「誠」を実践するための方法が具体的に書かれています。

博くこれを学び、
審らかにこれを問い、
慎みてこれを思い、
明らかにこれを弁じ、
篤くこれを行なう。

学ばざることあれば、これを学びて
能くせざればかざるなり。
問わざることあれば、これを問いて
知らざれば措かざるなり。
思わざることあれば、これを思いて
得ざれば措かざるなり。
弁ぜざることあれば、これを弁じて
明らかならざれば措かざるなり。
行わざることあれば、これを行いて
篤からざれば措かざるなり。

人一たびしてこれを能くすれば、
己れはこれを百たびす。
たびしてこれを能くすれば、
己はこれを千たびす。
果たしてこの道を能くすれば、
愚なりといえども必ず明らかに、
柔なりといえども必ず強からん。

『中庸』第十一章 二節(朱子章句第二十章)

これをすれば、誰だって「誠」に至ることができるという
具体的な方法です。
ひとつひとつ考察していきます。

博学

博く学ぶ、というのは
「クイズに即答するための情報を脳みそに詰め込むこと」
とは別物です。

そうではなくて、

「自分」が「今」生きている環境を観察し、
身の回りで起こる出来事をきっかけにして、
得られる「生きた情報」を貪欲に集め、
自分自身の行動に変えること
を指すんだと思います。

自分が直面している現実は、潤沢な教材の宝庫です。
専攻分野は多岐にわたります。

人体の不思議とか、

食物と毒物の選別とか、

どう生きれば納得のいく人生を送れるかとか、

心の持ちようとか、

人との関わり方とか、

自分の抱えている問題と繋がっている
社会の実態とか、

そういう一つ一つに「学び」を見出して
精神的向上や、
肉体の健康維持の工夫や、
社会貢献のために役立てていくことを
「博学」というのかなと思います。

審問

審らかに問う、とは

わからないことをそのままにしない
ということだと思います。

仕事をする上でも、
コミュニケーションの行き違いで起こるミスは
悲惨な結果を招きますから、

誰かと協働する際には
受け取ったものが周囲の認識と共通のものか
ちゃんと確認すること、

わからない場合は
わかるまで、多方面からアプローチすること

が大事になってくると思います。

とはいえ、私自身(今でも)よく陥るのが
「なにがわからないのかがわからない」という状態です。
これはおそらく質問の土台になる知識が不足しているから
なんだと思います。

はじめての仕事の事前説明で
「質問はありますか?」と聞かれたときなんかは、
即答できないことも結構あって、

若い頃はいちいち恐縮していましたが、
こういうことを何度か経験するうちに

「未経験の状態で、質問したいことを
 目を皿のようにして探したところで、
 現実的に有用な情報を得られる質問はできない」

という考えに至り、

「わからないことが出てきたら教わりに行っていいですか」
と断って、
「とりあえずやってみる」という方法を取るようになりました。

慎思

慎んで思う、というのは、

自分の身に引きつけて
「自分はどうか」をよく考えること

だと思います。

自分の言動や、起きている問題について
思索する習慣をもち、
軽率な言動を慎むこと
と解釈してみます。

ここだけ取り上げると、
さきほど平然と紹介してしまった、
「わからないのでとりあえずやってみる」
という方法が、「暴挙」のような気がしてきます。

でも、うかつに「軽率な言動を慎もう」とすると
「わからないからしないの」という逃げ腰の言い訳が
まかり通ることになります。
それはおかしいと思う。


この「慎思」も、
「博く学ぶ」をやっていてこそ
成り立つのかもしれません。

学ぶために冒険をして、起こったことを咀嚼し、
そこから得た教訓をもとに「慎む」ことができれば
やっている本人も、生きた心地がすると思います。

外側から教え込まれたルールって、
中には受け手を殺すものも混じっているので、
鵜呑みにして遵守するのは危うい
とも思います。

明弁

明らかに弁ず、というのは
対象を分析して、はっきりとさせる
ということだと思います。

そしてそれは、
正しい枠組み、基準を持つことで可能になる。

無闇矢鱈に外側から「正しい」を吸収しようとすると、
本人の体には合わない毒が混ざっていたりして危険ですが

反対に、
自分ひとりで、一から「正しい」を作ろうとすると、
だいたいひとりよがりになって
集団社会に適応できない、ということが起きます。

何が「正しい」かを咀嚼して、
それが自分に合っているかを吟味しながら
身につけていくという点では、
なんだか食べ物に似てるなあ、と思いました。

篤行

篤く行う、というのは
神に献ずるつもりで、丹精を込めて厳かに実行する
ということを言います。

その行動に自分の全エネルギーをかけて行う、
ということになると思います。

これがおそらく、
「真摯に、誠実に、深刻で霊活」な状態なんだと思います。

この、「博学」「審問」「慎思」「明弁」「篤行」
の五つを心がけ、
さらに
人が1回でできることでも100回はやり、
人が10回でできるようなら1000回やり、
自分自身でも「できている」と思えるようになるまで
やり込んで、極めることができれば、

「誠」に至ることができるのだそうです。

自分なりの実践を振り返って

正直、上記のヒントを
漢字ノートになんども臨書していた頃を振り返っても、
ただしく実践できていたとは思えません。

人と比べて百回、千回と数えることはせず、

また、そこまでしなかったからか、
なかなか「自分はできている」と思えないまま、

一旦、無気力になりました。


もともと、私自身の幼少期を振り返ると、
興味関心に偏りがある子どもだったので
物事に興味をもつ感性が未成熟だったんだと思います。

私が興味があったのは、
「人として尊敬できる人物像」であり、
「その在り方」でした。

「外側から見えている理想の人物像」を
自分に再現するため
「アンテナを張ろう」「なんでも興味を持とう」
「面白がろう」としていたので、

身の入らないことをムリヤリ自分に押し付ける、
詰め込み教育型の「博学」をやることになりました。


ここからは、そんな私の失敗談をもとに、
「これは違ったな…」という教訓を挙げていこうと思います。

平素の「死を顧みずやる」は見当違い

平たく言うと、
私は仕事に寝食を忘れて、没頭しがちだったんです。
「仕事の為に死んだって別に後悔しない」
みたいなことを考えていた節もあり、
「死」に対して無防備でした。

脅迫的に「博学」をやろうとしたのも手伝って、
周りにいる批評家からの口出しにまで
真剣になったのが
追い討ちになりました。

エネルギーを注ぐ対象を、
いらない注文にまで分散させたうえ、
エネルギー補給と
休息を疎かにした人間の末路は
単純明快です。

だんだんジリ貧になっていくんです。

仕事をするに当たって必要なのは、
その仕事のために発揮される
繊細な創意工夫と、
果断な行動力です。
どちらも、相応のエネルギーが要ることです。

私は、調子のいい時
エネルギーのほとんどを仕事のために使い、
それを自負心に変えていました。

なので、この失敗は痛恨でした。

死にかけてくると、
自分に余裕がなくなって
仕事がお粗末になるんです。
精魂込めた仕事ができなくなってくるんです。

…芸術なら、
死に際の荒々しさに
「美」を見出してくれる誰かがどこかにいることを
期待できるかもしれませんが

人を生かすための仕事には、
生きている人間の営為が必要です。

エネルギーは、うっかりすると霧散する

エネルギーが枯渇して、
物が考えられなくなってくると、
何を優先するかの判断も鈍ってきます。

一概に「仕事に集中する」と言っても、
その内容は多種多様で膨大です。

緊急かつ重要で手間のかかるタスクとか、
緊急だけどさほど重要でない単純作業とか、
誰かが持て余した時用にとってある仕事とかが
その辺にごろごろ転がっている中で、

何を優先させるかという「段取り」には、
頭を使うことになります。

見当違いなことにエネルギーを使ってしまうと、
後々の仕事の進捗にも影響が出てきます。

かすっかすの気力と止まった頭で
目の前に飛び込んできた問題をとりあえずやる
みたいな状態になってくると、

「私何やってんだろう」ということに
貴重な時間と労力を割き、

1日の終わりに、
HPが0に近くなった状態で
ラスボスと対峙することになります。

「本来、自分が何のためにこの業務をしているか」
という手綱をしっかり握っておくことが大事で、

その手綱を握れるだけの力がないと、
振り落とされて、文字通り忙殺されることになる
と言うことを、この時学びました。

発揮できる力を、望ましい対象に一点集中する

「真摯に」「誠実に」やるには、
力を注ぐ対象を選別して、余計なものを切り捨てる必要がある。

でも、力の発揮に不可欠な、
身体をケアする時間は
むしろ最重要であって、そこを切り捨てたら元も子もない。

この教訓を経て、
私が切り捨てようと決めたのは、
「人からどう思われるかを気にする時間」です。

他者からつけられる難癖のほとんどは、
発言者の自己紹介だと思うからです。

その方の課題はその方にお任せして、
自分の課題に誠心誠意尽くすのが、
私が本来すべき仕事なんだと思います。

自分の探究課題は、
自分が見ている世界に、潤沢にあるからです。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

自分のこれまでの経験から、得た教訓をまとめてみました。
面白がっていただければ幸いです。

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2024年4月11日 拝

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