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悔いなく生ききるには、を考える

人間五十年、下天のうちをくらぶれば〜
なんて言ってた頃から幾星霜。
今じゃ「人生100年時代」なんですよね。

そんな

なが〜い人生を、いかに完成させるか

を、考えてみたいと思っております。

個人的に、ちょっと生き急いでいた頃は、
「60歳で死ぬ」
って、決めてたんですけど、
これまでの低空飛行状態を昇華する機会に恵まれ、
せっかくなんで、「円熟して死にたい」と、欲が出ました。

そのためには、
まず人生全体を見渡して
今できることに目処をつけて、
そこに全霊をかけたいです。

私、知的生産とか、知的向上とかっていう言葉が好きで、
その手の本を読むことが多かったんですが、なかでも
花村太郎『知的トレーニングの技術〔完全独習版〕』という本が、
お気に入りなんです。

その中で、

知的離陸は志をたてることから始まる

孔子は、15歳で志を立てて、30歳で最初のひと区切りがあると言った。
“而立”といって、身を固め、知的にもひとりだちする年齢という意味で30歳がひとつの区切りになると言うのだ。この“志学”から“而立”までの15年間は知的離陸のための準備期。…
…孔子も、この時期には、一方で学問に励みながら、いろいろの職業を転々としていた。それで、「吾少くして賤しかりき、故に鄙事に多能なり」、つまり、「自分は若いとき身分が低く貧しかった、そのためたくさんのつまらぬ仕事ができるようになったのだよ」と、弟子たちに語っている。

花村太郎『知的トレーニングの技術〔完全独習版〕』23頁

と、言っています。

私の場合、主観では、
15歳から22、3歳くらいまでは自分の殻に閉じこもって鬱屈としていて、
大学生の時に読んだ、
サミュエル・スマイルズの『自助論』(竹内均 訳) の一片、

海軍将校コリングウッドはお気に入りの若者に「25歳までに人格をみがき上げなさい。そうすれば、あとは順調に進むだろう」と諭している。
習慣は歳と共にこり固まり、それが人間の性格を形づくる。
習慣を変えるのは大人になればなるほど困難だ。

S.スマイルズ著 竹内均訳『自助論』273頁

に焦って、とにかく琴線に触れたら動こう、と行動を変えたんです。
……あと2年しかないじゃん状態だったので、駆り立てられました。

計画して勉強した、訓練した、鍛錬した、というかんじではなく、
そのときどきの感覚に従った感が強いのですが、
結果としては、現状を前向きに捉えられていると思います。

もっと出来たのでは、と悔やむのではなく、
すべて「今」に繋がっていると、淡々と受け入れられています。

ちゃんと「而立じりつ」できているのではないでしょうか。

学びは一生涯続くものですから、
いまわかっていなくて、今後わかる必要があることは、もちろんあります。
できるようになりたいことも。
これから学んでいきますし、挑戦もやめません。
気づきにつなげられるよう、
よく観察してアンテナを張っていくつもりです。

でも、半年前に「立つ年」を迎えたので、
もう準備期間ではないんですよね。
今持っているもので、どうやって世の中の役に立つか。

ちょうどいいタイミングで、
これと思える仕事と出会えました。
まずたゆまず愚直に、
かと言って無闇に力んだり気負ったりせず、
着実に歩みを進めていきたい。

淡々と、目前の仕事に取り組んでいくとして、
次のステージは10年後の「不惑」です。

40歳の「不惑」については、
安田登『身体感覚で「論語」をよみなおす。』で言われている
「心を区切らない…決めつけない」という解釈が腑に落ちて、
きっとそうなんだろうと感じています。
決めつけるから、悩んだり、迷ったり、不安になったりするんですし。

不惑とは限定しないこと

四十、五十くらいになると、
どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。
「自分ができるのはこのくらいだ」とか
「自分はこんな性格だから仕方ない」とか
「自分の人生はこんなもんだ」とか、
狭い枠で囲って限定しがちになります。
「不惑」が「不或」、つまり、「区切らず」だとすると、
これは、「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない
」という意味になります。
そうなると「四十は惑わない年齢だ」というのとは
全然違う意味になるのです。

古い自分をリセットし、常に新しい自分に出会っていく
年輪を重ね、
さまざまなことを積み重ねた自分を捨てるというのは、
そう簡単にできることではない。
それが本当に怖くなるのは当時で言えば四十歳、
今ならば五十〜六十歳くらいでしょうか。
だから四十が「不或(不惑)」なのです。

安田登『身体感覚で「論語」を読みなおす。』42頁〜46頁

私、10年後には、そうなっていたいです。

実際のところ、これから先何が起こるかは想像がつきません。
想像しても、それが現実化する確率を予測することはできません。
そこまで考えるの面倒くさいし、
いまは、突き進みたい気分なんです。

だから、考えるとしたら、
「自分がどういうスタンスをとるか」だと思っています。
あらゆる局面で、「なにを選ぶか」。
死ぬ時には、「よく生きた」と思って死にたい。

山本兼一『命もいらず名もいらず』での、山岡鉄舟の死に際が私の憧れです。

ーーよく生きた。
しみじみそう思う。
少年時代から禅に励んだおかげで、なにごとも一生懸命にやる気持ちが強く育った。あらゆることに全力を出して取り組んできた。
だから、後悔はまるでない。ここまでが、おれの一生だ。そう、淡々と思う。諦めではない。当たり前の事実を、当たり前にとらえている。
ーーよく生きた。
そう思えば、こころは、春風に吹かれているように気持ちがいい。

山本兼一『命もいらず名もいらず 下 明治篇』564〜565頁

【見舞いに来た勝海舟とのやりとり】


「君は、おれを残して先に行くのか。ひとり、味をやるではないか」

「もはや、用が済んだから、お先に御免こうむる」

山本兼一『命もいらず名もいらず 下 明治篇』572頁

もうあまり、方法論探しに本を読むことはしないつもりです。
…いや、必要に応じてすることはしますが、
あれもある、これもある、で方法論コレクターになるのではなく、
具体的な、目前の課題を解決するための、情報収集だけに絞っていこうかと。

…読書自体はやめませんけど

ともあれ、
なんとなく、自分の体で経験したことを、
直接学びに変えていく方向に進んで行っているのでは、
と感じています。

いま、どうするか

ここまで、人生全体について語っちゃってましたが、
今をどう生きるかで、将来が決まるんですよね。
理想の未来像を夢見てにやにやしておしまいにはしたくないです…。

「人生は習慣の織物である」

…スイスの詩人、アミエルというかたの言葉だそうです。

「  思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから
 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから
 行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから
 習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから
 性格に気をつけなさい それはいつか運命になるから」

これは、マザー・テレサの名言ですね。

どちらからも、今に集中しろ、と言われている気がします。
SNSばっか見ていられないですね…。
人と比べず、自分の今を大事にしたいです…。

今、何を選ぶかが大事なんだと思います。

以前…ほんの少し前の私は、
自分がどういう生き方をしたいかを、
本などの、外の情報から得ようとしていました。

その中で、「この人に就けば大丈夫だ」と、
私淑ししゅくした安岡正篤先生の著書に
『人生の五計ごけいというものを見つけました。

当時はどういう生活習慣を定着させれば賢明でいられるか
を求めていたので、
日々の過ごし方についての参考にできればと思い、
三色ボールペン読みをしたんです。

「人生の五計」とは

その名の通り、人生についての五つの「計りごと」を言います。
…はかりごと、物事がうまくいくように、
前もって手段や方法を考えることですね。計画です。

具体的には、

一、生計(いかに生きるべきか。人間の本質的な生き方)
二、身計(いかに社会に対処していくべきか。社会生活における価値観)
三、家計(いかに家庭を営んでいくべきか。一家の維持)
四、老計(いかに年をとるべきか。老いる計りごと)
五、死計(いかに死すべきか。死生一如の死生観)

安岡正篤『人生の五計』まえがき 安岡正泰氏

と、なります。

その中で、私の身に迫ったのは、「生計」と「身計」です。
「家計」「老計」「死計」は、
まだ私自身の経験が足りなかったようです。

「生計」を考える

どのように生きるかについては、
人生全体を俯瞰して理屈で抽象的に考えるよりも、
自然に則した考え方をしたほうがいい。

つまり、「自分が実践できること」を、軸に据えるんです。

起きる、飲食する、寝る…という、
日常の生活に即して考えた心掛けを
日用心法にちようしんぽうと言います。

この日用心法を整えるために、
具体的にどういう習慣をもてばいいかと言うと、

◎周囲の環境をよく観察する
◎朝の時間を大切にする(思考の整理や、身にこたえる読書をこの時間にする)
◎本を読む
◎変化の中に身を置いて、視野を広げる

2021年に書いた読書メモ

そうした生活習慣を続けていくなかで
見えてくる感覚を大切にすることで、
自分がよく生きたと思って死ねる選択を
選びとっていけるんだろうと思います。

「身計」を考える

社会の一員として、どのように世の中に貢献するかについて、
日頃、何に気をつければいいのか。
結論から言うと、「付き合う人」みたいです。

安岡先生曰く、特に重要なのは「師」と「友」なんですって。
人間を完成させるのは、人との交流…というわけですね。
朱に交われば赤、という言葉もある通り、
付き合う人が、その人の有り様を決める
と言っても過言では無さそうです。

この辺りについては、まだまだ青二才なので、
安岡先生の言葉を鵜呑みにしがちです。
ただ、「合わない人には深入りしない」と心に決める出来事を、
つい最近経験したので、重要性は身に染みています。

自分自身に責任を持つには、
あえて関係を断つことも必要だと思います。

師恩友益しおんゆうえき

まず、「師」について。
お師匠さんには、二種類いるそうです。

一つは、「経」の師。
このお師匠さんは、学術的に優れていて、
学びの面で師事したいと思える方。

私の場合、著書から入って私淑している、
内田樹さんや、安田登さん、齋藤孝さんがそうかな
と感じています。


…まあ、私が勝手に言ってるだけなんで…。
縁覚えんがくの弟子ってやつですかね。

二つめは、「人」の師。
このお師匠さんは、人として尊敬できて、
自分もこんな人になりたい、と思える方。
私にとっては、安岡正篤先生、山岡鉄舟先生、夏目漱石先生…
読書によって、三人もの「師」と出会えました。
だから、読書が好きです。

つぎに、「友」について。
友には、「益友えきゆう」と「損友そんゆう」があるそうな。

益者三友、損者三友。

なおきを友とし、
まことを友とし、
多聞たもんを友とするは、益なり。

便辟べんぺきを友とし、
善柔ぜんじゅうを友とし、
便佞べんねいを友とするは、損なり。

『論語』

益友について解説すると、
「直」も「諒」も、素直であることを意味しています。
「多聞」は、何かにつけて気付かされる、
頷かされるような教養を多く持っていることを意味します。

つまり、
気持ちよく付き合えて、
良い感化を受けれる人と友達になると、
自分の人格培養にも安心だってことだと思います。

逆に、損友になるのはどんな人たちなんでしょう。

「便辟」は
いい加減でその場しのぎの調子合わせを言い、
自分の言動に責任を持たないことを言います。

「柔然」は
芯がない、気骨がない、バックボーンがない
…調子は良いが、力がない、ということ。

「便佞」は
人に気に入られるために心にもなく調子を合わせる、
ということ。

うわつらの調子合わせで、
適当にあしらわれてるなぁって感じたら、
距離を置いた方が双方のためって事ですかね。
フレネミーは論外です。

汝の足下を掘れ、そこから泉湧く

私の名前には、「友」という字が入っています。
父が、「よい友だちが集まってくるように」
と名付けてくれたんですが、
自分の名前…つまり
親の願いを知り、
名前に即した生き方をすることに意識を向けた時
あまりに受身だな、と感じて
自分なりに解釈を加えました。

字ひとつひとつに
「整える」という意味があったので、

「友人の心を整えられるような存在」になりたい

というのが私の目標になりました。

私は、自分自身が
周囲の人にとっての「益友」でありたい。

素直に、良いことを吸収して
成長をやめない人になりたいです。

日用心法の実践については、
「人」の師への憧れや、自分の思考の癖もあって、
自分を締め上げて苦しくなっちゃったこともあるので、
ほどほどに、自分のペースを探りながら進んでいく所存です。

2022年6月19日記す

話題にのぼった書籍

📕  花村太郎『知的トレーニングの技術〔完全独習版〕』

📗 サミュエル・スマイルズ『自助論』

📘 安田登『身体感覚で「論語」を読みなおす』

📙 山本兼一『命もいらず名もいらず』上巻下巻

📕 安岡正篤『人生の五計』

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