悔いなく生ききるには、を考える
人間五十年、下天のうちをくらぶれば〜
なんて言ってた頃から幾星霜。
今じゃ「人生100年時代」なんですよね。
そんな
なが〜い人生を、いかに完成させるか
を、考えてみたいと思っております。
個人的に、ちょっと生き急いでいた頃は、
「60歳で死ぬ」
って、決めてたんですけど、
これまでの低空飛行状態を昇華する機会に恵まれ、
せっかくなんで、「円熟して死にたい」と、欲が出ました。
そのためには、
まず人生全体を見渡して、
今できることに目処をつけて、
そこに全霊をかけたいです。
私、知的生産とか、知的向上とかっていう言葉が好きで、
その手の本を読むことが多かったんですが、なかでも
花村太郎『知的トレーニングの技術〔完全独習版〕』という本が、
お気に入りなんです。
その中で、
と、言っています。
私の場合、主観では、
15歳から22、3歳くらいまでは自分の殻に閉じこもって鬱屈としていて、
大学生の時に読んだ、
サミュエル・スマイルズの『自助論』(竹内均 訳) の一片、
に焦って、とにかく琴線に触れたら動こう、と行動を変えたんです。
……あと2年しかないじゃん状態だったので、駆り立てられました。
計画して勉強した、訓練した、鍛錬した、というかんじではなく、
そのときどきの感覚に従った感が強いのですが、
結果としては、現状を前向きに捉えられていると思います。
もっと出来たのでは、と悔やむのではなく、
すべて「今」に繋がっていると、淡々と受け入れられています。
ちゃんと「而立」できているのではないでしょうか。
学びは一生涯続くものですから、
いまわかっていなくて、今後わかる必要があることは、もちろんあります。
できるようになりたいことも。
これから学んでいきますし、挑戦もやめません。
気づきにつなげられるよう、
よく観察してアンテナを張っていくつもりです。
でも、半年前に「立つ年」を迎えたので、
もう準備期間ではないんですよね。
今持っているもので、どうやって世の中の役に立つか。
ちょうどいいタイミングで、
これと思える仕事と出会えました。
倦まず弛まず愚直に、
かと言って無闇に力んだり気負ったりせず、
着実に歩みを進めていきたい。
淡々と、目前の仕事に取り組んでいくとして、
次のステージは10年後の「不惑」です。
40歳の「不惑」については、
安田登『身体感覚で「論語」をよみなおす。』で言われている
「心を区切らない…決めつけない」という解釈が腑に落ちて、
きっとそうなんだろうと感じています。
決めつけるから、悩んだり、迷ったり、不安になったりするんですし。
私、10年後には、そうなっていたいです。
実際のところ、これから先何が起こるかは想像がつきません。
想像しても、それが現実化する確率を予測することはできません。
そこまで考えるの面倒くさいし、
いまは、突き進みたい気分なんです。
だから、考えるとしたら、
「自分がどういうスタンスをとるか」だと思っています。
あらゆる局面で、「なにを選ぶか」。
死ぬ時には、「よく生きた」と思って死にたい。
山本兼一『命もいらず名もいらず』での、山岡鉄舟の死に際が私の憧れです。
もうあまり、方法論探しに本を読むことはしないつもりです。
…いや、必要に応じてすることはしますが、
あれもある、これもある、で方法論コレクターになるのではなく、
具体的な、目前の課題を解決するための、情報収集だけに絞っていこうかと。
…読書自体はやめませんけど
ともあれ、
なんとなく、自分の体で経験したことを、
直接学びに変えていく方向に進んで行っているのでは、
と感じています。
いま、どうするか
ここまで、人生全体について語っちゃってましたが、
今をどう生きるかで、将来が決まるんですよね。
理想の未来像を夢見てにやにやしておしまいにはしたくないです…。
「人生は習慣の織物である」
…スイスの詩人、アミエルというかたの言葉だそうです。
「 思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい それはいつか運命になるから」
これは、マザー・テレサの名言ですね。
どちらからも、今に集中しろ、と言われている気がします。
SNSばっか見ていられないですね…。
人と比べず、自分の今を大事にしたいです…。
今、何を選ぶかが大事なんだと思います。
以前…ほんの少し前の私は、
自分がどういう生き方をしたいかを、
本などの、外の情報から得ようとしていました。
その中で、「この人に就けば大丈夫だ」と、
私淑した安岡正篤先生の著書に
『人生の五計』というものを見つけました。
当時はどういう生活習慣を定着させれば賢明でいられるか
を求めていたので、
日々の過ごし方についての参考にできればと思い、
三色ボールペン読みをしたんです。
「人生の五計」とは
その名の通り、人生についての五つの「計りごと」を言います。
…はかりごと、物事がうまくいくように、
前もって手段や方法を考えることですね。計画です。
具体的には、
と、なります。
その中で、私の身に迫ったのは、「生計」と「身計」です。
「家計」「老計」「死計」は、
まだ私自身の経験が足りなかったようです。
「生計」を考える
どのように生きるかについては、
人生全体を俯瞰して理屈で抽象的に考えるよりも、
自然に則した考え方をしたほうがいい。
つまり、「自分が実践できること」を、軸に据えるんです。
起きる、飲食する、寝る…という、
日常の生活に即して考えた心掛けを
「日用心法」と言います。
この日用心法を整えるために、
具体的にどういう習慣をもてばいいかと言うと、
そうした生活習慣を続けていくなかで
見えてくる感覚を大切にすることで、
自分がよく生きたと思って死ねる選択を
選びとっていけるんだろうと思います。
「身計」を考える
社会の一員として、どのように世の中に貢献するかについて、
日頃、何に気をつければいいのか。
結論から言うと、「付き合う人」みたいです。
安岡先生曰く、特に重要なのは「師」と「友」なんですって。
人間を完成させるのは、人との交流…というわけですね。
朱に交われば赤、という言葉もある通り、
付き合う人が、その人の有り様を決める
と言っても過言では無さそうです。
この辺りについては、まだまだ青二才なので、
安岡先生の言葉を鵜呑みにしがちです。
ただ、「合わない人には深入りしない」と心に決める出来事を、
つい最近経験したので、重要性は身に染みています。
自分自身に責任を持つには、
あえて関係を断つことも必要だと思います。
「師恩友益」
まず、「師」について。
お師匠さんには、二種類いるそうです。
一つは、「経」の師。
このお師匠さんは、学術的に優れていて、
学びの面で師事したいと思える方。
私の場合、著書から入って私淑している、
内田樹さんや、安田登さん、齋藤孝さんがそうかな
と感じています。
…まあ、私が勝手に言ってるだけなんで…。
縁覚の弟子ってやつですかね。
二つめは、「人」の師。
このお師匠さんは、人として尊敬できて、
自分もこんな人になりたい、と思える方。
私にとっては、安岡正篤先生、山岡鉄舟先生、夏目漱石先生…
読書によって、三人もの「師」と出会えました。
だから、読書が好きです。
つぎに、「友」について。
友には、「益友」と「損友」があるそうな。
益友について解説すると、
「直」も「諒」も、素直であることを意味しています。
「多聞」は、何かにつけて気付かされる、
頷かされるような教養を多く持っていることを意味します。
つまり、
気持ちよく付き合えて、
良い感化を受けれる人と友達になると、
自分の人格培養にも安心だってことだと思います。
逆に、損友になるのはどんな人たちなんでしょう。
「便辟」は
いい加減でその場しのぎの調子合わせを言い、
自分の言動に責任を持たないことを言います。
「柔然」は
芯がない、気骨がない、バックボーンがない
…調子は良いが、力がない、ということ。
「便佞」は
人に気に入られるために心にもなく調子を合わせる、
ということ。
上っ面の調子合わせで、
適当にあしらわれてるなぁって感じたら、
距離を置いた方が双方のためって事ですかね。
フレネミーは論外です。
汝の足下を掘れ、そこから泉湧く
私の名前には、「友」という字が入っています。
父が、「よい友だちが集まってくるように」
と名付けてくれたんですが、
自分の名前…つまり
親の願いを知り、
名前に即した生き方をすることに意識を向けた時
あまりに受身だな、と感じて
自分なりに解釈を加えました。
字ひとつひとつに
「整える」という意味があったので、
「友人の心を整えられるような存在」になりたい
というのが私の目標になりました。
私は、自分自身が
周囲の人にとっての「益友」でありたい。
素直に、良いことを吸収して
成長をやめない人になりたいです。
日用心法の実践については、
「人」の師への憧れや、自分の思考の癖もあって、
自分を締め上げて苦しくなっちゃったこともあるので、
ほどほどに、自分のペースを探りながら進んでいく所存です。
2022年6月19日記す
話題にのぼった書籍
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