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長谷川等伯『楓図』と『松林図』を二つの展覧会で

今、東京国立博物館では、新年の企画で長谷川等伯の『松林図屏風』が国宝室に展示されています。

これまでに何度か見たことがあるので、今回はどうしようかと迷っていたら(「迷っている」とfacebookに書いたら)、facebookのターゲットオーディエンスは綿密に実行されているようで、しばらくするとサントリー美術館の広告が流れてきました。

なんと、こちらも長谷川等伯の国宝の障壁画を展示中。

サントリー美術館で「京都・智積院の名宝」という展覧会が開催されていることは知っていましたが、そこに等伯の絵があるとは知りませんでした。京都の智積院も知らないし。。


そこで、智積院のことを調べてみましたら、高野山と根来山に縁があるお寺だということがわかりました。

根来山は和歌山県にある真言宗の寺院ですが、大阪の堺に近く、戦国時代には鉄砲で武装した根来衆の根拠地ともなっていました。もともと智積院はその根来山の塔頭のひとつでした。

その根来山の智積院がどうして今は京都にあって、等伯の障壁画を持っているのかというと、次のような経緯があってのことでした。

1.秀吉による根来山の焼き討ちと、智積院の避難
2.秀吉の最初の嫡子、鶴松の死去(3歳)
3.鶴松の菩提を弔う祥雲寺(京都東山、臨済宗)の障壁画の仕事を長谷川等伯が受注し、一門総出で完成
4.秀吉の死と、関ヶ原での家康の勝利
5.家康から祥雲寺を智積院が拝領

そして400年以上経った今、等伯の障壁画が智積院の宝としてサントリー美術館で展示されています。

今回展示されている祥雲寺(現在は智積院)の障壁画のうち、長谷川等伯が「楓図」を、そして息子の久蔵が「桜図」を描いています。

しかし将来を待望された久蔵は、「桜図」を完成させた翌年に26歳で亡くなります。

我が子鶴松の死を悲しむ秀吉の気持ちを、等伯も身を持って知ることになるのですが、祥雲寺の障壁画が完成し鶴松の三回忌を迎える直前(2日前)に秀吉には二人目の嫡子・秀頼が誕生します。

そうした中、等伯は誰からの依頼でもなく「松林」を描きました。

いったい私が、以前に『松林図』を見たのはいつだろうと本棚を見ましたら、2010年の東博での展覧会の図録がありました。

没後400年 長谷川等伯
[東京展]東京国立博物館 2010年2月23日〜3月22日
[京都展]京都国立博物館 2010年4月10日〜5月9日  

図録に挟まっていたチケットには2010年3月13日の日付印。この時も『松林図』と一緒に智積院所蔵の等伯の『楓図』を見ているのですが、このような経緯を知らずにいましたので、掻きむしられるような気持ちまでは全くなく、ただただ自分の記憶の中にある松林の風景を重ねていました。

もともと、長谷川等伯のことを知ったのは私が39歳の頃で、銀座のギャラリー小柳で杉本博司の『屋島』の写真を見たことがきっかけ。

HIROSHI SUGIMOTO  NOH SUCH THING AS TIME


「まるで、あの松林の写真のようだ」と思ったことから『松林図』が心の中から離れなくなりました。

「松」は、永久(とこしえ)に変わらない不老長寿の象徴として豪奢に描かれることが多いけれど、『松林図』の松は全く違う。すでに根元はかき消されています。

霧がかったり、夕闇が迫る時刻の松林はこんな風に見えることがありますので、そうした風景を単に描いていると思っていましたが、描かれた当時の状況を知ると、まったく違ってきます。

これは、心の中を重ねて描いた絵なんだ。

頭で想像した架空の理想の世界を描くのではなく、心の中をそのままに自然に託してうつす。

やまとうたは
人の心をたねとして
よろずの言の葉とぞ
なれりける

古今和歌集 仮名序 冒頭

日本人が「ひとのこころ」を種として言葉で「歌」にしてきたことを、等伯は水墨と線で「画」にしたのです。

絵師としての技術を高い次元で体得していたからこそ、心の中の景色をダイレクトにアウトプットできたのでしょう。

「わたしの心はこう感じている」
と、震えて消え入りそうな松がそこにあります。

サントリー美術館で展示中の『楓図』を描いた頃は等伯は52〜54歳。
そして東京国立博物館で展示中の『松林図』は54〜56歳。


これはサントリー美術館と東京国立博物館をはしごして、「今の私」が見なくちゃ。


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