社宅の犬
私がまだ小学生の頃、
父の会社の社宅に住んでいたことがある。
父は転勤族で、私が小学校へ入ってから、これで三度目の引越しだった。
住む家も、学校も、友達も、何度も変わっていくうちに、いつしか私は友達を作らなくなっていった。
社宅は、多摩川にほど近い場所にあった。
「着いたぞ!」
父の運転する車が、新しい社宅へ到着した。
私は黙って車から降りると、父の後に着いて行った。
今度の部屋は5階で、しかも階段だった。
毎日、5階まで上がったり降りたりするのかと考えただけで、うんざりした。
母は、いい運動になると言っていたけれど、絶対ウソ。父のいない所で、私にグチグチ言うのは分かってる。こうなったら、覚悟を決めて、朝家を出る時は、絶対に忘れ物をしないと誓った。
父が鍵を開けると、そこに茶色の芝犬が居た。
犬は私たちを見て『ワン』と吠えた。
「なんだ? 犬がいるとは聞いてないぞ」
「嫌だ、どこから入って来たの?」
「ねえ、手紙があるよ」
父がテーブルの上にあった手紙を読み上げた。
「次にお住まいの方へ、この犬の名前はハッピーです。前の住人の方から、ずっとここの社宅で飼われていた犬です。ここにお住まいの間、お世話をお願いします。なんじゃこりゃ?」
「絶対ヤダ!」
犬が嫌いな私は、すぐに反対した。
犬にもそれがわかるのか、私のことを吠え立てた。
「きゃ〜〜っ!」
私は外へ飛び出して行った。
急いで階段を駆け下りて、振り返ると、犬が私を追いかけて来るのが見えた。
「来ないで〜っ!」
走って、走って、私は河川敷まで来た。
犬は吠えながら、しつこく私を追いかけて来た。
疲れ果てた私は、とうとう犬に追い詰められて、転んでしまった。
犬が私に飛びついた。
噛まれる!
そう思って、目を閉じた時、
犬が私の顔をペロペロと舐めた。
犬は、私と遊んでいるつもりのようだった。
陽が沈みかけたころ、私は犬と一緒に社宅へ帰って行った。
結局、社宅の犬はこのまま飼うことになり、
ハッピーの散歩は私に任されて、
私は毎日、ハッピーを連れて河川敷へ行った。
ハッピーはぐいぐい私を引っ張って歩いて梃摺らせた。
犬が嫌いだったけど、ハッピーと一緒にいるうちに、次第にそうでもなくなった。ハッピーは私の部屋で寝るようになり、どこへ行くのにも私たちは一緒だった。
やがて、1年が経ち、新しい学校にも慣れて来たけど、私に友達はいなかった。 クラスの子と普通に話をしたりはするけれど、仲良くなるつもりはなかった。
だって、きっとまたすぐに父は転勤してしまう。
父の辞書には、『単身赴任』と言う文字はない。家族というものは、片時も離れて暮らしてはならない、と、父は口癖の様に言っていた。
でもね、お父さん、少しは私とお母さんのことも考えて。
言葉に出来れば、どれほど心が軽くなっただろう。
母は母で、私と同じことを考えていた。
社宅内は上下関係があり、お付き合いにも骨が折れると母は嘆いていた。
それでも、家族が一緒にいることは、
やはり、良いことなのだと、時々思うことがある。
誕生日も一緒に祝えるし、何か相談事がある時も、そばに居れば、
解決の糸口がすぐに見つかるからだ。
ある日、私がハッピーの散歩から帰ったら、
珍しく、父が早帰りしていた。
「あれ? お父さん仕事は?」
「実はな、転勤が決まったんだ」
「今週中には、ここを出るわよ」
母が、引っ越す気満々で答えた。
『クーン』と、ハッピーが寂しそうに鳴いた。
「ハッピー!」
私は思わず、ハッピーを抱きしめていた。
お別れだと思った瞬間、ハッピーのことが
愛おしく思えた。
父と母は、そんな私を見て、目を伏せた。
やがて引っ越しの日が来て、
すっかり片付いた部屋の中に、
ハッピーが、ポツン、と座っていた。
「バイバイ、ハッピー」
私は、最後にハッピーの好きなビスケットをあげた。
父が、テーブルの上に手紙を置いた。
『次にお住まいの方へ、この犬の名前はハッピーです。3年前から、ここの社宅で飼われていました。とても利口なかわいい犬です。ここにお住まいの間、お世話をお願いします』
「お父さん!」
「何だ、どうした?」
「ねえ、ハッピーも連れてっちゃダメ?」
「だってお前、ハッピーはここの社宅の犬だぞ」
「そんなの、誰が決めたの?」
「それは」
「ハッピーと一緒じゃないと行かない!」
遂に、父は私に根負けして、ハッピーも一緒に行くことになった。
けれども、リードをつけてもハッピーは、その場を
動こうとしなかった。
「ハッピー、どうしたの?」
「行きたくないんじゃないの?」母が私に言った。
「ハッピー、一緒に行こうよ」
私はそう言って、ハッピーを引っ張っても、ハッピーは梃子でも動かない。
何度やっても、同じだった。
「ハッピーどうして? どうしてここがいいの?」
「諦めなさい」
父がそう言った時、ハッピーの耳がピーンと立って、ドアの前で吠え始めた。
「どうしたの?」
誰かが階段を上がって来る足音がする。
ハッピーはさらに大きな声で吠え立てた。
ハッピーのただならぬ様子に、
父がドアを開けると、
そこに、一人の男性が居た。
ハッピーはその男性目掛けて飛びついた!
「ハッピー、元気だったか!」
男性は、ハッピーを抱きしめると、
ハッピーはちぎれんばかりに尻尾を振って応えた。
ハッピーが、ここを出たくなかった本当の理由がわかった。
男性はハッピーの一番最初の飼い主さんだった。2年前、マレーシアへ転勤になりやむを得ず、社宅の人へハッピーのことを託したのだ。
そして、ようやくハッピーの元へ帰って来た。
「ハッピー、お前ずっとここで待っていてくれたんだな」
ハッピーは本当に嬉しそうだった。
私は、寂しかったけど、心の中ではホッとしていた。
「前に住んでいた人も、きっとハッピーの気持ちを察していたのかもしれないな」
父が私に言った。
ハッピーは、この社宅で、本来の主人の帰りを待っていた。忠犬ハチ公のように。
ひとつ違うのは、ハチは主人に再び会うことが出来なかったけど、ハッピーはこうして会うことが出来た。
それは、私たち家族と、その前の家族が、ハッピーの命を繋いできたからだ。
そして、ハッピーも私たち家族の絆を深めてくれた。
ハッピーと過ごした日々は、大切な思い出となっている。
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