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あらためて聖徳太子の実在性について


 理論は 反証されたものと 反証される可能性のあるもの しかない。
 永遠に真実にはたどりつかない。
見解や論争に決着がついたと思われるものも、あくまで暫定的結論に過ぎないこと。人間は問題を提起し、それに仮の答を出しながら、思考するという考え方に、私は深く納得しています。これは哲学者カールポパーの考え方。
 でもポパーは、哲学よりも株屋まわりでよく聞く気がします。歴史屋方面ではあんまり聞かない。

 で、私が仮説として自分なりに現時点で納得している仮説のひとつは、聖徳太子は蘇我氏の功績を習合した偶像であり、その個人は実在していないということ。

 歴史は敗者側の事績をすべてなかったことにする、もしくは敗者側の功績を勝者側の功績に挿げ替える。しかしそれには無理があるときに、習合とかその逆とかをしていることがまま、あるようです。特に神話の論理破綻的な部分にそれを強く感じます。国津神の幾人かを習合した神が大国主(オオクニヌシ)。長髄彦(ナガスネヒコ)は逆に、その一人を幾人(柱)もの神に分けて、その事績を別人のもののようにしている、もしくは、そもそも長髄彦は一族名か部族名であり、一個人ではないのではないだろうか。というのが、(国文学も歴史学も専門外の)私の茫洋とした古代理解です。

そして乙巳の変(大化の改新)の敗者である蘇我氏の信仰体系や文化のうち、後世に残さざるを得ないところ、消し除くことができない部分をすべて託した像が聖徳太子ではないかと。そもそも聖徳太子の超人的な能力とか、その人物像とかって、ひとりの人間というよりも、大国主に感じるような虚像のような、作り物の印象を受けるんですよ。まずもって私が聖徳太子って嘘くさい(←めちゃめちゃ失礼ですいません)と思ったのは、厩戸皇子って名前です。キリストにしてもですけど、スーパースターは厩で生まれないと箔がつかないの?てゆーか寧ろこれなんかジーザスクライストスーパースターの設定の模倣?仏教諸派あるものの、大乗仏教系の信仰はそもそも原始キリスト教的色彩が強いし、洋の東西をアレンジしただけで、キリスト教と大乗仏教系では同じストーリーの説話や法話も少なくないんですよね。

例えば「こころの貧しいひとたちはさいわいである」ではじまるマタイやルカの「山上の垂訓」と、親鸞さまの「教行信証」は共通点が多い。「よろこび喜べ、天においてあなたがたの報いは大きい。あなたがたは地の塩、(略)あなたがたは世の光である。」「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議如来也、はまたこれ無量光明なり(略)慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。(略)慶喜いよいよ至り・・・」山上の垂訓も教行信証も幸い、喜びや慶喜について繰り返し語られます。共通点が多いというより、もはや同じ話を別の人が編集、翻訳した結果に思えるのです。

とかいう12~13歳の時の印象をそのままに大人になったら、聖徳太子は実在しない説の人も結構いるって知りました。聖徳太子の功績とされたいくつかの書は、その書物の中の言葉が使われた年代から考えても、聖徳太子より後世の作ではないか(例えば「天皇」「国司」など)だとか、飛鳥と離れた斑鳩に造営している不自然さとか。そもそも大化のタイカって「希望」って意味のヘブライ語が語源ではないかとか。

最近、何年かぶりに読み直した本たち↑
こちらの作者の方々の考えと私の考えは必ずしも同じではありませんが、大いに参考になる面白い本だと思っています。

タイトル画像は法隆寺の一般参加券の写真です。
近畿の人は、学校行事とかで一度は法隆寺に行ってませんか?法隆寺ってJR法隆寺駅からよゆーで歩ける距離ながら、なんか駅周辺、狭い道を車と人が行きかっててちょっと危ないので、うまいこと道を整備してもらえないですかね~。


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