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思うこと262

 ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』
(「ヴィクトル・ユゴー文学館 第5巻」/潮出版社/2000年)を読んだ。
『ノートルダムの鐘』としてディズニーのアニメーションにもなるくらいだから、まあそれなりにすっきりした物語なのかな、と気軽に構えたのが大間違いであった。

 教会で行われる聖史劇がなんやかんや妨害に苛まれ、劇の作者で哲学者のグランゴワールがハラハラしながら劇の進行を見守る、というなんとなくコメディ風なノリから始まったため、ますます油断した。

 なんとなく主要な登場人物が把握できた頃差し挟まるユゴーによるめちゃくちゃ長い15世紀頃のパリの説明(物語にはほぼ無関係)はまだ良い。大聖堂から見下ろす「パリの町並み説明」にはもの凄い執着を感じる。それほど作者は古き良きパリを思慕しているが、その作者の住む時代のパリすらこちらにはあまりピンと来ないことだって別段構わない。
 ところで「印刷技術」が「建築」を食いつぶす論は読んでいて面白かった。建築が文字や象形を刻み、言わば本よりも前に本の役割を果たしていたはずなのに、印刷のせいでその力が失われるのでは?素晴らしい建築がないがしろにされるのでは?的な感じ。(うろ覚え)

 そうこうしている間に話は一人の超絶可愛いジプシー少女・エスメラルダを取り巻き急転直下していく。「せむし男」とも称されるカジモドの醜さ云々よりも、彼の育ての親的な聖職者クロード・フロロの、エスメラルダへの執着が本編で最もヤバイ。お堅い身分であるにも関わらずジプシーの少女をめちゃくちゃに好きになってしまった自分と、自分にはまっったく興味のない彼女(他に好きな人がいる)の間で悶々とする様が実に怖い。というかもう気持ち悪い。二段組みで4ページにも渡ってエスメラルダに愛を懇願するシーンは、久々に読んでいてゾッとした。(今まで真面目に禁欲的に慎ましく生きてきたから、さもありなん、と受け入れても良いのだが、絶対そんな場合じゃないだろという少女のピンチにも関わらず、露になった肌にムラムラきてる神父を見ていたら、同情的な気分も失われた。しかしその読者への圧倒的パンチ力に感慨。)

 一方のカジモドは全然ピュアである。むしろピュア過ぎる。彼に幸あれ。

 そんなわけで読めば読むほどそれぞれの人間の業というか愚かさ(しかしながらそれは時として美しいもの、多分)がこれでもか!と押寄せてきて、流石ユゴーだよ、あんたはスゲエよ、と精神が疲弊しながらフィナーレに突入。「えっ?!嘘だろ!」という戸惑いと衝撃と終幕。えも言われぬ読後感。甦る冒頭の平和な聖史劇の騒ぎ…無邪気に読み始めたあの頃…。

いわゆるネタバレをしたくないのでこんなことしか言えないのだが、とにかく『ノートル=ダム・ド・パリ』はもの凄い小説だった。『レ・ミゼラブル』で満足している場合ではなかった。ユゴーはヤバイ。最高。でももう一回読むのはムリ。

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