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当たり前とは

何だろう。

悲しみを誤魔化す癖があるからあえて書くけど楽しい内容ではないので悪しからず。

先日祖母が亡くなった。
逝ってしまったであろう時間、私は帰宅途中なぜか泣きながら自転車を漕ぎ家へ向かっていた。完全にやばい人だけど夜だから許してほしい。寒かったからかもしれないし、何かを感じたかもしれない。不思議。

覚悟はしていたし、前回さよならするときは、もう2度と会えないかもしれないな。と思いながら別れた。短時間で、いつも別れ際にしていた握手すらできなかったけど、不思議と後悔はない。長い闘病生活がやっと終わり、苦しみから解放されて良かったとさえ思う。
けれどもやっぱり寂しいもので。
毎日死に触れていると、嫌でも慣れてしまう。
どんな最後でも優劣なく堪えるから、自分の心を守らなくてはならない。
引っ張られないように転け落ちないように。
常に最悪を想定し、心に急激な負担をかけないようにしている。

祖母は私のことが好きだ。
会うたびに表情や声はそれを伝えてくれていたし、たくさんの言葉をくれた。
孫の中で一番好きだと言ってくれるから、毎度のこと照れたが誇らしかった。

私は祖母のことが好きだ。
私たちといつでも連絡が取れるようPC教室に通い、メールを覚え、80代後半でもスマホを使いこなした祖母。今までにたくさんのやりとりをした。いつもメールの最後に「また会えるのを待ってまーすよ」と変なところで伸ばす癖。毎回くるぞくるぞと思いながら、楽しみにしていた。
読書家でたくさんの本を読み、私をいろんなところに連れて行ってくれた。何冊もあるアルバムにコメントを添えた写真が丁寧に残っていた。
最近では膝を悪くした後、家で出来るリハビリを教えると、きちん実践して報告してくれた。
一度歩けなくなったのに、再び歩けるようになった。あなたは当たり前のような顔をしていましたが、本当に凄いことだよ。
程よくボケて、よく笑い、よく話をした。
何歳になっても新しいものを吸収し続け、学び続けたあなたを素敵だと思った。
山が好きで、歩くことが好きで、本が好きで、料理が好き。愛猫と亡くなった祖父のことを心から愛しているおばあちゃん。
だから何というか、今更伝えられなかった気持ちはないし、亡くなった後も当たり前のように私の中には祖母がいる。
私と祖母は互いの人生に影響し合っていたことを知っている。
肉体の死はみな平等に訪れるから、避ける術はない。そこは受け入れている。
でも、それでも寂しくないよとは言えない。すごく悲しくて寂しくてたくさん泣いたけど、負の感情がない。私はいつも患者さんとの別れで後悔ばかりしてしまうけど、それが一切ないんだよね。

私は去年体調を崩し有給が取れないため、もし何かあっても日によっては帰れない可能性があることを危惧していた。気が気ではなかった。
それなのに、私の連休の前日に居なくなっちゃうんだからさ。おいおい、こりゃ帰るしかないなと。おばあちゃん、そんなとこまで気遣わんでもええねんでと、都合の良い解釈をしてしまう。
今思えば祖父の時も連休だったから、遠方からみんな来れたんだったっけ。
私は無事にあなたを見送ることができて良かったです。
膨大すぎる本達は少しずつ読むね。


おばあちゃん、ちゃんと帰ってこれたよ。これから何十年も後になるかもしれないし、数年後かもしれんけど、待っててな。
待ってまーすよを期待してさよならをした。
どうか安らかに。おやすみなさい。

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