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とんでとんで アルゼンチン

昔、将来のことなんて何も考えていなかった若い頃、往復のチケットと日本だと1ヶ月くらい生活できるかなという現金を持って、南米を旅した。

当時の南米は、20年くらい続いた軍事政権のもとで進められた経済政策が破綻して、年間数百%、国によっては数千%のハイパーインフレだった。国庫は破綻して、国は荒れていた。

はしょって解説を試みると、資源豊かなアルゼンチンとかブラジルとかが、1960年代に、資源輸出が先進工業国に買い叩かれる一方で割高の工業製品を輸入させられたら、だんだん自分たちは貧しく先進国依存になってしまう、と考えた。

折しもクーデターで政権をとった右派軍事政権は、貧しくなると共産化が進むからと、長期で工業化を推し進めてそれを阻止しようと主張した。それで長期軍政のもとで、工業製品を国産にするような「輸入代替工業化」というのを進めたのだが、それには機械や設備を輸入して買わないとできないので、70年代の資源価格高騰を背景に中東産油国の資金を先進国の銀行経由で数兆円と借りていった。

それが80年代にはいって資源価格暴落で資金繰りに行き詰まり債務が払えなくなり、また、実施した工業化もかなり非効率なものだったり、中銀が政府の債務を引き受けて通貨をばんばん発行してきたので(これは昨今の日本といっしょだが)、金持ちのお金は欧米に逃避、悪循環の極みで、経済はとても不安定に。為替は毎日のように切り下がり、物価はとてつもなく高騰した。

そんなわけで、貧乏旅行の若者には運良く、僕は現金をUSドルに替えて持っていったので、うまくやると(街中でさがして当時存在したパラレルレートで現金を替えたり)切下がった現地通貨が安く手に入った局面があり、1ヶ月くらいとおもった軍資金が3ヶ月くらいまでもつことになる。

それでアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、ボリビア、ペルーと3ヶ月まわれたが、移動はもっぱら安い長距離バスだった。

記憶の中から、長距離バスでの奇妙な思い出をふたつ。

看板

アルゼンチンの北部のなにもない、荒涼とした平野をバスにゆられていたとき、日本語の看板がぱっと目に入った。

「安保」

バスはどんどん進み、一瞬だけ、ほったて小屋のような建物に、手書きのペンキで書かれたその二文字がみえただけだった。

あれはなんだったんだろう。

1984年のことだったから、日本の学生運動の時代から10年以上も後。安保闘争の末、アルゼンチンまで流れてきた学生運動家がいたのか。地の果てのようなところまで来ても、行き交う街道の車に、安保反対を叫び続けたかったのだろうか。

それとも、単に、あんぽさんという名前の日本人が、自分の名前を掲げたレストランをだしていただけなのか。

7月のアルゼンチンは真冬で、バスの外は気温10度くらいで、どんよりとした曇り空が多かった。窓の外には、想像していた壮大で肥沃なパンパ(大草原)と青空ではなくて、殺伐として荒れ野が続いていた。

とんでとんで

長距離バスでは、運転手が自分たちが眠くならないように、ラジオや勝手に自分の好きな曲をテープで大音量でかけていた。そんなバスで、何回か聞いたのがこの曲だった。ぜひ、ちょっと聞いてみてください。

聞き覚えがある曲だなと最初思ったが、特徴的な曲なので、すぐに日本の歌謡曲のカバーだとわかった。

円広志のヒット曲。「とんでとんで」が、スペイン語の「どこ?」である「ドンデ・ドンデ」に、うまい具合にすり替わっている。

そして、原曲同様に、くどいくらいDondeを繰り返して、最後にDonde estara mi felicidad?(私の幸せはどこに?)で終わると記憶してた。

その後も、何故かときどきこの部分を思い出しては、口ずさんだりしていた。ドンデ、ドンデ、ドンデ、ドンデ、ドンデ、エスタラ、ミ・フェリシダ?。エスタラは未来形なので、where will my happiness be? 自分の将来のどこに幸せがあるのか?

今、YouTubeでさがして聞くと、歌詞が、何度聞いてもそうなっていない。Donde volabas tu? (あなたはどこでとんでいたの?)になっている。

バージョンがいくつかあるのだろうか?

あのとき長距離バスで聴いたのは、たしかに、「幸せはどこ?」になっていた。

地の果ての、冬のパタゴニア。

幸せはどこ、どこ?と、何度も何度も問いを投げかけていた歌が流れていた長距離バス。モラトリアムな若い頃の、遠い思い出。




アルゼンチン、ウシュアイア市あたり



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