第10話 団地の男、渡辺透 【渡辺透】

 渡辺透は公営住宅、つまり団地に引っ越した。
 4月の募集で当選して入居が年を明けての2月だから、10ヶ月かかったことになる。公営住宅住宅については転居の男、渡辺透(https://note.com/rtdn_jp/n/nfc773d9bb7e8)を参照いただきたい。
 渡辺は生活保護であるから、逐一ケースワーカーに報告をしなければならない。私用な引っ越しではないため引越し代から入居費用は役所持ちである。
 生活保護受給者という応募枠がある。家賃が半分以下になる。
 公営団地に引っ越すことを役所が断るなどはありえない。
 渡辺は当選の通知に歓喜した。36年の人生でこれほど嬉しかったことなどなく、今後公営団地当選を超える喜びはないであろうと思った。
 普段の行いがよくない渡辺が当選してしまった。毎日だらだら過ごして、暇さえあればアダルト動画を観て、飯を食って排泄するだけのなんの目的も生きる意味も生産性もなにもない、虚無の人生。友人は皆去り恋人など14年いない。
 こんな救いようのない人間が当選などしてよいのだろうか。世の中には病気でも頑張って働き精一杯生きている素晴らしい人がたくさんいる。が、結局は運なのであろう。世の中は不公平だ。

 プラスがあればマイナスがある。渡辺は本気で死に怯えた。公営住宅当選というあまりに大きなプラスに釣り合うマイナスは、死以外にありえない。
 しかし、この大歓喜の中死ぬのも悪くないな、とも思った。よいことがあると他人に優しくなれることも知った。

 マイナスに怯えつつもやることをしなければならない。公営住宅のパンフレットには、2月15日から28日の間に引っ越すよう書かれている。入居日より前に一度だけ内見ができる。一度だけであるから、メジャーやメモ帳等を用意せよというアドヴァイスも追記してある。
 以上をケースワーカーに電話する。ケースワーカーは20代後半の七沢みあ似の美女である。渡辺は基本的に年上にしか興味がないため眼中になく、あったとしても渡辺みたいな生ゴミは相手にはされないので安心してよいだろう。勘違いをしてしまう男も少なくはなさそうだ。そこについては称賛に値する。勿論道端の吸い殻以下の存在である渡辺に称賛されたところで値はしないだろうが。
 ケースワーカーによると、引っ越し後のエアコン代は本体5万5000円まで、網戸は全額支給。渡辺は36年の人生でエアコンを買ったことがない。相場を知るために検索してみた。当たり前の話であるが、ピンからキリまで価格の差が大きい。渡辺としては、安く冷えればよいのである。

 生活保護で引っ越しをする場合、最低2社から見積もりし一番安い業者と金額を報告せねばならない。渡辺が見積もりサイトで必要事項を入力ししばらく待つと、業者から立て続けに電話が来た。そのたびに荷物の量と他社の金額を訊かれる。訊かれるから正直に答えるわけで、最初が3万、次が2万、それが1.5万になり1万にまで下がった。
 業者は「できるだけ他社さんよりお値段を下げます」と言い下げに下げてくる。が、渡辺の場合役所から金が出るため別に安くなくてもよいわけである。ある業者は「渡辺様、失礼ですが極端に荷物が少なすぎませんか」とまで言ってのけた。

 確かに荷物は少ないな、と渡辺は部屋を見渡しながら思った。5畳ワンルームだから荷物は最低限でなければならない。5畳の中にキッチン、冷蔵庫、家電、衣装ケース、パソコンデスク、ゲーミングチェア、布団、本がある。あとはユニットバスだけである。洗濯機を置くスペースはない。それについて不動産屋は「電気の節約になりますよ」と言っていた。物は言いようである。
 木造だから隣室の会話は丸聞こえである。駐輪場もベランダもあるわけがない。築40年である。これで家賃は5.5万というと驚かれる。
 もっといい物件あるのではと言われる。そりゃあるだろうと渡辺も思う。この物件の前は4畳の共同トイレ風呂なしであった。そこから引っ越すために沢山の不動産会社を回ったが、今の物件か同じく4畳共同トイレ風呂なししか紹介して貰えなかった。理由は勿論、生活保護受給者だからである。これに精神障害者があれば言うことはない。
 生活保護には生活保護しか住んでいない物件しか紹介されない、というわけだ。

 それに比べて公営住宅は2DKで風呂トイレ別、ベランダも洗濯機置場も駐輪場もあり、鉄筋コンクリートで家賃は2万である。部屋の広さは3倍で家賃は半分以下、破格である。
 天国じゃないか、と渡辺は思う。「人生ゴールしたようなもんだな」と誰もいない部屋で呟く。

 引っ越し後に買うものをリストアップする。
 公営住宅は一般的な賃貸とは異なり、エアコン・換気扇・給湯器・ライト・インターホン・網戸・便座蓋・洗濯機等々を入居者が購入せねばならない。
 エアコンと網戸以外は貯金を切り崩す必要がある。エアコンも2DKであるから、後にもう一つ自費で買っておきたい。渡辺は、引っ越しが夏でないことに感謝した。
 渡辺の貯金額は25万である。が、貯金しようと思ってしているわけではない。酒も煙草も人付き合いもやめ、欲しいものも本以外なく余るので残しているだけに過ぎない。
 勿論ケースワーカーに報告済である。渡辺は両親より早く死ぬことと逮捕されることだけは絶対にしないと決めている。
 この際だから家電もすべて買い替えようと目論んでいる。
 キッチンが倍以上の広さになるため、IHは2口タイプを買う。他には炊飯器、電子レンジ、オーブントースター、パソコンデスク、スピーカーを買い替え、セミシングルベッド、マットレス、ウォシュレット、乾燥機付き洗濯機を買う。

 入居日の1ヶ月前にスリッパ・懐中電灯・筆記用具・メジャーを100均で買い揃え、電車で遠出をし、窓口センターなる場所で鍵を預かり、新居の内見へ向かう。コロナ禍で対面での面接がなくなり、書類の行き来のみであった渡辺にとって、公営住宅側の人間と初対面となる。
 昼過ぎに窓口へ行き、書類を出し、鍵を貰う。17時半までに鍵を返却せよと言われる。

 グーグルマップで見た限りでは交通の便に不安があったが、いざ行ってみると電車もバスもありまったく悪くない。23区だから当たり前の話ではあるが。
 10数階建てのかなり大きな公営住宅である。渡辺は玄関から建物を見上げ、おおきく息をついた。おそらく死ぬまでここに住むことになるだろう。つまり渡辺にとって終の棲家というわけだ。広い玄関で老婆が女性介護士に支えられながらゆっくりと歩いている。通り過ぎエレベーターで上がり、自分の部屋を探す。エレベーター付き物件に住むのは生まれて初めてである。エレベーター自体も広い。
 部屋の鍵を差し込み、回す。ここで鍵が合わなかったり、「ドッキリでした」と人が現れる可能性を考えたが、なにもなく鍵は開き、部屋にも入れる。
 部屋は和室の6畳と5畳、キッチンはフローリングで5畳。和室にはどちらもエアコンが設置できるようになっている。畳なのでパソコンデスクやベッドを置く際は下に敷かねばならない。
 トイレは洋式で蓋なし、電源の差込口があるのでウォシュレットがつけられる。
 風呂は2畳ほどの広さで、浴槽はステンレスでシャワーは水と湯が分かれているものではなく、温度を設定できるタイプ。今の部屋のユニットバスより広い。
 部屋もキッチンも広くて綺麗である。水回りは今のアパートの2倍の広さ。上下に収納スペースも十二分にある。
 部屋には押し入れがあり玄関には靴置き場まである。
 渡辺は過剰な期待をしないよう戒めていたが、実際に目にする部屋は、期待以上のものであった。

 コンロや冷蔵庫やカーテンやベッド等のサイズを測る。メモ帳は買っておいたのにボールペンは忘れた。スリッパも忘れてしまい靴下が真っ黒になった。渡辺にはこういう抜けた可愛いところがあった。
 最後に押入れをすべて開放し部屋のふすまも取り払い、畳に被せてある紙を剥がし、バルサンを設置する。そこで渡辺はようやく気づいた。洗濯機を置くスペースがない。
 トイレと風呂につながる半畳以下のスペースにの水道と排水口はあるが、そこに置くと道が塞がりトイレにも風呂にも入れなくなる。メジャーで測ると奥行きが70センチ。50センチ程度の縦型洗濯機を置く余裕はある。

 作業を終え、電車に乗り窓口へ行く。
 帰宅し、現在住んでいるアパートの不動産屋に電話をし、退去を告げる。引っ越しした後部屋になにもない状態で鍵を渡しお役御免という流れになる。
 この5畳ワンルーム木造ユニットバス築40年家賃5.5万の部屋に、渡辺は10年住んだことになる。一つの部屋にパソコンデスク・布団・衣装ケース・冷蔵庫・キッチンがある。新居は3部屋あるので寝室、居間、キッチンと分かれることになる。考えてみれば渡辺は、18で家を出てから18年間のほとんどをワンルームで生活してきた。派遣会社の寮を転々としていた頃も、東京に出てきてからもずっとワンルームであった。自分専用の洗濯機も一人暮らしの間買ったことはなかった。風呂とトイレが分かれている生活も、鉄筋コンクリートの生活も、なにもかもが初めてである。
 3部屋の生活に慣れる必要があるか。でも住んでいればすぐ慣れるよな、と渡辺は思った。

 現時点でまだ渡辺には実感がない。合格通知が来ても、部屋が決まっても、実際に部屋を見ても、そこに住むという実感が現れてこない。
 インターネット、電気、ガス、水道の引っ越し手続きをインターネットで行う。前回の引っ越しの記憶が一切ないため、インターネットで逐一検索して引っ越しの仕方を学ぶ。

 内見をし部屋の全体が理解した渡辺は、大手3社に電話をした。見積もりを取って貰い書類て送ってもらう。
 使用許可日が2月15日から28日の間で、使用していなくても15日から家賃が発生する。渡辺の場合家賃は区から出るから関係はないが、どうせなら15日に引っ越しておきたい。
 1社は電話で見積もりを取りpdfをメールで送って貰う。後の2社は後日訪問しその場で見積もりを取る。引っ越しの業者はどこでもよい上金額も無関係なので、有名な大手にしておく。

 引っ越しの一ヶ月前に訪問での見積もりを受ける。
 Sの営業は感じのよい丁寧な若い男性で、軽やかに雑談を交わす。米を1キロ貰う。
 Hの営業は名刺を片手で渡すへらへらとした30代男性で、粗品もなにもなく、他社の金額を訊いてきた。
 誰がどう見てもSのほうがよいだろう。渡辺には決定権がないため、Sの見積もりを高めに言ってHを落とす作戦に出た。
「4万でしたね」と渡辺が言うと、Hは安さに驚き、上司に電話をかけ4万以下で行けるかという確認を取った。「39000円になりました!」と渡辺に笑顔で言う。
 白々しいな、と渡辺は思った。渡辺がSの金額を正直に告げた場合も、同じように上司に電話をかけて、それ以下になったと言うのだろう。

 翌日役所へ行き書類を提出した。Sに決定である。金は翌週に振り込まれる。
 すぐにSの営業に電話をし決まったことを告げる。2日後に段ボールが届くとのこと。
 そして大と小がそれぞれ10枚届けられた。部屋が少ないため仕方なくミニマリストにならざるを得なかった渡辺の荷物は、大2枚と小3枚で事足りた。小3枚が本であった。

 次にエアコンである。ケースワーカーは「本体価格は5万5000円まで。設置費用は2万まで出る。引っ越しと同じく見積書を取れ」との指示である。
 早速渡辺は近所の家電量販店へ行き店員に「5万5000円までのエアコンはあるか」と問うが、ノーと言われる。
 ネットで調べると安いメーカーで金額以下のものはあるが、ネットショッピングでの見積書取得の方法がわからない。

 だらだらと雑談している渡辺に、「ドン・キホーテが安いのではないか」との助言があった。渡辺は早速ドン・キホーテへ走り、家電コーナーへと急ぐ。
 この助言がまさに天啓であった。

 10畳用が税込み58080円との表示が。渡辺はすぐさま店員に話しかけ、見積書を書いてもらう。エアコン50080円、設置工事14800円。店員は茶髪のチャラそうな若い男だが、対応は誠実そのものであった。
 6畳用は税込み49800だが、役所から58000円まで出るため上限ギリギリにしておきたい。6畳とキッチンで1台使い、寝室の4.5畳は安く小さいものを自腹で買えばよい。
 渡辺の脳は冴えに冴えきっていた。
 残る問題は、上限を超えた80円がどうなるか、である。
 翌日渡辺は役所へ走った。
 渡辺は美人ケースワーカーに見積書を提出し、80円をオーヴァーしてしまったことを話す。いろいろ探し回ってそれが最安でしたという嘘もついておく。
 するとケースワーカーも「いろいろ探してこれが最安値なら、上に出します」と応える。渡辺は内心でガッツポーズをした。

 2週間後渡辺はケースワーカーの元へ走った。エアコン代金58080円と設置工事代金14800円を財布に仕舞い、ドン・キホーテへと走る。
 そこでエアコンを購入し、設置日を決める。引っ越しの2日後にし、家に走る。
 渡辺は走りに走った。まるで走れメロスである。が、すべて自分のためにやっていることなので、別に走れメロスではない。

 家に着きポストを確認すると、住宅使用許可書なる書類が届いていた。口座振替や共益費の免除、自治会へ提出する書類等々。
 当たり前の話であるが、東京都知事小池百合子の名前が入っている。どうせなら石原慎太郎の名前が入った書類が欲しかったなと思いかけたが、別にそうでもなかったので思うのをやめた。

 引っ越し日は決まり、業者の手配も済ませ、ネットガス電気の処理もし、買うものはリストにまとめ、エアコンを購入し、もう渡辺はなにもすることがなくなってしまった。
 その日が来るのを待つだけである。

 使用許可日の1週間前から部屋への出入りが許可され、掃除や電気ガス水道インターネットの工事が可能となる。
 鍵は3本。
 暇を持て余した渡辺は、室内の再確認と近所の立地確認と冷蔵庫の下に敷くマットを設置するため自転車で新居へと向かった。そこで様々なもののサイズを再度測り、アマゾンで購入する。
 天井を見上げる。当然照明などついてはいない。5000円程度のシーリングライトをつける予定であったが、渡辺は身長が160.5センチしかないので当然手が届かない。
「ふーむ、なるほど……」
 その場で脚立を検索する。5000円前後。おそらく今後何度も使うだろうし、買っておいて損はない。シーリングライトと脚立、パソコンデスクとデスクマットをアマゾンで購入し、引っ越し日の夕方に新居に届くようにしておく。
 出費が多い。貯金は20万しかないのでできるだけ抑えておきたい。が、そうもいかない。エアコンが一台出たのはありがたい話だが、賃貸とは異なりなにもかも自分の金というのは厳しいものがある。が、文句は言えない。文句があるなら公営住宅を断り今の部屋に済めばよいのである。
 渡辺は月に2、3万残すようにしている。だから翌月や翌々月に回せばよいのである。生活保護はクレジットカードは所持できないし、借金もできない。だから高価なものは貯金をすればよいのである。
 忙しい日が過ぎてゆく。
 が、渡辺にとってその忙しさはカイジでいうところの、法悦……垂涎の至福……! 嬉々として働く渡辺。至福の雑用。至福っ……! 桃源郷を彷徨うが如くの圧倒的至福っ……!であった。

 そして引っ越し当日となった。旧居にはゴミ捨て場があるが、そこはフリーダムとなっている。家電だろうが車のホイールだろうが筋トレマシンだろうがなんでも捨ててある。住人だけでなく近所の人間も不要なものを好きなだけ捨てている。
 渡辺はそこに旧居で使っていた家電やパソコンデスクを、再利用や転売されぬようドライバーとハサミで徹底的に破壊してから捨てた。
 部屋は新居に持っていく段ボールだけとなった。大サイズが6個と小サイズが3個、扇風機、ゲーミングチェア、パソコン、32インチモニタ、120リットルの冷蔵庫。10年住んだ築40年木造ワンルーム5畳、ユニットバス、洗濯機置場と収納スペースなし。
 やっとこのうさぎ小屋から開放される。渡辺は嬉しさのあまり朝7時に起きた。それから14時に業者がやってくるまで、至福の時を過ごした。

 引越し業者は若い男性二人で、丁寧に挨拶を受ける。大手業者から依頼を受けた下請けだと名乗った。重い本が入った段ボールを2箱重ねて持っていく。テキパキと無駄なく動き、すぐに終わった。渡辺は自転車、業者はトラックで新居へ向かう。

 渡辺と業者ほぼ同時に到着した。入り口の外で老人が数人トラックを眺めている。渡辺は入り口を抜けてエレベーターで8階に上がり、鍵を開けドアを開け中へ入る。持ってきておいた100円のスリッパに履き替え、業者を待つ。キッチン横のマットの上に冷蔵庫を置いてもらい、あとはすべて適当にフローリングに積み上げて貰う。
 引っ越しは1時間とかからなかった。
 インターネットの工事は明日早朝のため、することが映画を観るか読書しかなく時間を持て余す。ドラッグストアへ行き掃除グッズを買い揃え、フローリングや畳、風呂やトイレを掃除する。そして浴槽に湯を張る。
 渡辺は18歳に一人暮らしをしてから36歳の今に至るまで、ワンルームより広い部屋に住んだことがない。トイレと風呂が別なのも初体験で、追い焚きだの自動だの機能がついた風呂も使ったことがない。広いキッチンに住んだこともないしエレベーターつきも、自分専用の洗濯機がある生活も、18年間なかったのである。

 40度で湯を張ってみたところ、ちょうどいい温度であったので風呂に入る。その際、ドラッグストアで買っておいた温泉の素を入れてみる。浴槽に浸かるのは何年ぶりであろうか。

 風呂上がりの体温を下げるついでに事前に買っておいた600円の食品用ラップフィルムを持って上下左右と自治会長へ挨拶に行く。右隣は60代の女性、左隣は若い姉妹、上も60代女性で下が60代男性であった。上の女性は渡辺が名を名乗り粗品を手渡すと、「上はしなくていいのよ」と困り顔であった。それ以外はなにも問題はない。若い姉妹の姉がびっくりするほどの美女であった。
 自治会長は70前後の愛想のよい女性で、同じ階の男性が8階の管理者をやっているのでゴミ出しや自転車の置き方を聞くように言われる。棟の名簿を手渡される。そこに副会長の名前があったのでそこへも行かねばならない。
 上下左右と自治会長と副会長と、管理者。7人に600円、粗品だけで5000円の出費である。
 管理者は50前後の男性で、渡辺が聞いたことにのみ返答する。渡辺がゴミ出しの曜日を聞くと、月曜日が燃えるゴミで云々と答える。渡辺が自転車はどこに置けばと聞くと、8階はエントランス出て左だと答える。
 渡辺が「822に引っ越しました渡辺と申します」と言って粗品を手渡すと、受け取って靴箱の上に置く。
 悪い人ではなさそうだけど、コミュニケーション障害ってやつだな、と同じコミュニケーション障害の渡辺は心中で笑った。

 翌日、渡辺は自転車で旧居に向かった。担当者と部屋を見て鍵を返却する。10年住んだので退去費用はゼロと言われる。50代の担当者は「7万ぐらい返ってくると思いますよ」と言ったが、返金がいくらあろうが生活保護の渡辺には関係がない。すべて区へ返還である。
 その流れで家電量販店へ行き、一番安い洗濯機を買う。本体が23800円で消費税と設置費用を入れて3万円とのことで、即座に購入する。週末に届けるよう申し付けておく。

 翌日はエアコンの設置日である。若く愛想のいい男がエアコン本体と様々な工具を持ちやってきた。半袖の下に長袖のインナーを着用している。間違いなくタトゥーを隠している、と渡辺は睨んだ。書類を手渡して来た際にじろりと見ると、指から手のひら、手首にかけてびっしりとタトゥーが入っていた。間違いなく腕もびっしりであろうと内心にやつきながら首に目を動かすと、首にもびっしりであった。となるともう体中に入っているとみなしてよいだろう。
 渡辺はタトゥー愛好家が嫌いであるが、隠そうと努力している人間には寛大であった。しかし、隠せない部位にびっしりと入れてしまう人間は渡辺と住む世界が異なる人種であり、関わるだけ無駄どころかマイナスになると確信している。
 作業の終盤、壁の穴に断熱材を入れるため2300円かかると言われる。関わりたくない渡辺はさっさと支払い部屋から追い出した。

 気分を害した渡辺であったが、洗濯機を回し湯船に浸かり、すぐに上機嫌となった。自分専用の洗濯機というのも、一人暮らしをして初めての体験である。今の洗濯機は洗剤と柔軟剤の投入口があり、自動で動くようになっている。
 洗濯物をベランダに干す。考えてみればベランダがある物件に住むのも初めての体験である。
 早朝に洗濯物を干して部屋を出る。騒音被害で眠れない、部屋でのんびり過ごせないこともない。清々しい朝である。
 渡辺が生まれ変わったような心境で団地の前にある駐輪場に行くと、老人がラジオ体操をしていた。男性と女性が2人ずつである。
 男性が渡辺に向かってなにか言っているようなので慌ててワイヤレスイヤホンを外す。
「822に入った人?」
「あ、そうです。渡辺と申します」
 すると女性が「宗教の勧誘来ると思うけど、絶対に出ちゃ駄目よ!」と言って笑う。隣の女性も笑う。渡辺も笑う。
「仏壇とか買わせようとするからね。10万20万じゃないよ。300万とかするんだから!」
 他の3人も笑う。渡辺も笑う。自転車に跨がり敷地を出ようとすると、老婆が現れた。マスクをしているので誰が誰だか渡辺にはわからない。
「新しく入った人ね」
「はい、822の渡辺と申します」
「何歳?」
「36歳です」と渡辺が答えると「あらぁ、一番若いんじゃない?」と驚き言った。
「ほとんど年寄りだから平和なもんよ」
「確かに、夜も朝も静かですよね」と渡辺が同意すると老婆は満足そうに頷いた。
「ああそう駐輪場だけどさ、1階はどことか2階はどこって言われたでしょ。あれ、どうでもいいからね。好きなとこに止めなさい。ゴミも出しゃ持っていってくれるから」
 渡辺はありがとうございます、と言って道路へ出た。

 平和で不満も不安もなにもない人生が始まった。
 渡辺はそんな気がしていた。

「後は彼女だけだよな……」

 後は彼女だけだよな、と言いながら死んでいく。
 渡辺はそんな気がしていた。

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