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【自己紹介】スポーツツーリズム・スポーツビジネス×地域活性化の会社やってます。

スポーツ業界歴20年目にしてnote初投稿(笑)。これまでの経歴や経験、業界の中でもなぜこの領域(スポーツツーリズム)を選んだかなど、まずは「自己紹介」的な感じで書いてみます。「スポーツツーリズム」「スポーツビジネス×地域活性化」というワードに関心を持っていただける方、ちょっと長めですがもし良かったら読んでみてください。

1.プロフィール/今やっていること

中島祥元(なかしまよしもと)
株式会社/一般社団法人ルーツ・スポーツ・ジャパン代表

〈WEBなどに載せてる公式プロフィール〉
1976年富山県高岡市生まれ。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、スポーツ関連ベンチャーの立ち上げに参加、のちに取締役を務める。 UCI(国際自転車競技連合)主管の国際大会のオーガナイズに参画。2009年株式会社ルーツ・スポーツ・ジャパンを設立、2012年一般社団法人ウィズスポ(現一般社団法人ルーツ・スポーツ・ジャパン)を設立し両法人の代表。これまでにプロデューサーとして、自転車、ランニングを中心とした大小様々なスポーツイベントの立ち上げから企画運営、スポーツによる町おこし・地域活性化事業、公共スポーツ施設の事業開発等に従事。スポーツツーリズムやサイクルツーリズムの分野では官公庁の行政委員も多数務める。

ルーツ・スポーツ・ジャパンは2009年に起業して今年で早11年目です。事業の内容はざっくり言うと「スポーツ×地域活性化」。主に自転車(サイクリング)やランニングなど、道路を使う「ロード・スポーツ」を活用して、日本各地の地方誘客や地域振興をするということを事業として展開してます。スポーツと観光を掛け合わせた「スポーツツーリズム」という言葉もありますがそういうやつです。


このあたりは先日インタビュー記事を書いていただきましたのでよかったらご覧ください。⇓

基本的にはずっと「実業」担当ですが、最近は公の機関からも声をかけていただくようになり、スポーツ庁、国交省、沖縄県庁、茨城県庁などの外部委員や、出身の富山県の「とやまふるさと大使」も拝命しています。

2.ストーリー(少年時代~大学)

1976年に富山県高岡市というところに生まれ、高校卒業まで高岡で過ごしました。父は地元の「商工会議所」に勤め、母は郵便局員という平凡な家庭に生まれ育ちました。高岡は富山では第二の都市。富山の中では石川県にも近く、歴史・文化的には「加賀藩」に属していた時代もあった土地です。兼業農家だったこともあり、家の周りには田んぼが多く近くに山も川もある、そういう環境で育ちました。

中学から高校にかけては、高岡市内の学校で「バレーボール部」に所属し、結構部活に燃える少年って感じでした。中学は県で3位に入ることができ、高校では弱小校だったけど3年時は主将を務めていました。

月並みだけれど、中高時代のバレー部での活動で得られた「身震いするほど気持ちよくて、カラダ中がアツくなる感覚」が、多分今でも自分がシゴトで表現したい「スポーツがもたらす素晴らしい感覚」の原点なんだろうなと思います。そして大学は地元(お隣の石川県)の金沢大学へ進学。ところが一度進学したあとに「ちょっとこれは違うぞ」となり、1年で中退しています。

これは自分でも非常に情けないことなんだけど、振り返ってみると高校の頃はあまり深く考えずに地元に近い無難な大学を選んでしまい、いざ講義を受けてみると全然興味が持てない。「これおれがやりたいことなのかな?」と思い、結局大学を変える決断。「今度は(別に将来とかにつながらなくてもいいから)自分がとにかく興味持てる事やろう」と考えて、「じゃあ、スポーツやな」、と考え早稲田のスポ科(当時は人間科学部スポーツ科学科)に入りなおしたのでした。まああとは「東京に行きたかった」ってことも大きかったと思います。割と。

大学では一応「スポーツマネジメント」のゼミに所属しつつ、バスケやバレーのサークルやったり、それからベンチャー企業でインターンしたり、演劇の真似事したり・・。特にバスケのサークル(オール☆スターズ)が一番力を入れてやってたことでした。(あと当時はお笑いと音楽のliveによく行っていた。お笑いは千原兄弟がとにかく一番好きだった。「金龍飛戦」とか。)

この頃はまだ「起業」も具体的にイメージしてないし、将来の仕事も「スポーツ」に絞った訳でもなかった。割と色んなことを考えて悶々としていつつ、将来の職業は「スポーツ」「音楽」「お笑い」などの「人をワクワクできるシゴト」で、大企業じゃなくベンチャー、そんでいつかどこかのタイミングで自分で起業とかできたらいいなーという、そういう漠然とした感じで。

これは今もあまり変わらないけど、「スポーツ」も「音楽」も「お笑い」も、人の心を前向きに動かす、人を「ワクワク」させるって意味で、すごく近いモノがあると思ってます。本質的にはたぶん変わらない。そういうことがやりたいんだと思います。これからもずっと。

3.学生ベンチャー(一社目の起業)

普通に就職しようと活動し、結局お笑いや音楽のTV番組の制作会社へ入社が決定してました(もちろんスポーツ関係もやりたかったけど、当時は本当にスポーツ業界の求人はなかった)。

ただここで大きな転機があって、ゼミの友人が「スポーツの会社やろうと思うんだけど一緒にやらないか?」と声をかけてきた。「大学卒業して、一度も就職せず起業」って選択肢があるなんて全く考えてもなかったから戸惑ったけど、直感的に「こっちのほうが面白うそうだ」と思い彼のプランにのって、内定先は断りまんまと会社を始めることにしたのでした。そういう意味ではその時の彼が自分をスポーツビジネスの世界に引き込んでくれた張本人。(その後いろいろあって彼とはハッピーエンドには終わらなかったけど、その意味では、とても、感謝しています。)

当初は友人が社長で僕が体のいい言い方をすれば№2、それ以外に現役学生やパートタイマーが数人という体制で、カッコよく言えば「ザ・ベンチャー」。当時はITビジネス勃興期で渋谷ビットバレーと言われた時代で、僕らも渋谷のIT関連の先輩経営者にオフィスを間借りして、はじめました。懐かし過ぎる・・。もう24歳とかになっていたけど、相方の社長がまだ在学中(留年)だったんで、なんとなく「学生ベンチャー」って言葉も使ってたりしました。周りの大人が面白がってくれて、そういうネタでTV出たりとか出来た。あとになって振り返ってみると、そういうところが甘かったんだと思います。

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大学の卒業式の写真(「おれは卒業式でもスーツとか着ないぜ」という、いつの時代も必ず存在する大学生 笑)。これが2001年3月で、確か2月か3月に渋谷で「会社」を始めた。

「起業」したって言っても最初はやることが全く何もないので、色々考えて色々やって色々失敗しました。はじめは今でいう「スポーツ情報サイト」みたいなものをやろうとしてとりあえずサイト作って、勝手な記事とか書いてアップしたり。その頃は自分もillustratorとかDreamweaverとか使って、html書いたりもしてました。でも全くうまくいかずにそういうのはすぐ終了。そしてその後、色んなご縁で少しづつお仕事をいただけるようになり、「スポーツイベント企画運営」ができるようになる。

この頃の、自分の人生における一番の出来事は、たぶん「自転車ロードレース」の世界に出会ったことです。海外での国際自転車ロードレース事業に関わることができたこと。初めてみた「自転車ロードレース」はある意味衝撃的で、日本で言えば「銀座」に当たるようなところを交通規制して、超高速のロードレーサーが走る姿。それを鈴なりになって応援する人々。当時のメンバーで、「日本でもこういうことやろう」となったのを覚えています。それが今自分がやっている事業の原点だなと思います。

これ以外は、ラグビーの国際大会、サッカーの国際試合の事務局業務、それから海外や国内のマラソンに関わる仕事なんかもやらせてもらうようになりました。今も続いている、日産スタジアムの仕事なんかもこの頃からのご縁です。

2003年に経験した「タッチラグビーワールドカップinJAPAN(熊谷)」ではまだ26,7の自分が「事務局長」の肩書を拝命して、初めての国際大会を経験させてもらいました。スポンサー対応に広報業務、海外のチームとの調整等々。今振り返ってみれば、運営・プロデューシング全般的に自分のキャリア上「最悪の出来」だったと思うけど、やりおおせたときには相応の満足感と安ど感があり、ご依頼元の日本タッチ協会の偉い方にもそれなりに喜んでいただけたようで、それはそれはメモリアルな仕事になりました。

学生みたいな年齢のころに、明らかに自分のキャパを超えた仕事を経験できたのは幸せだった。それからこの大会はちょうど「SARS」が流行した年で、その影響で海外からの参加国は減ってしまいました。コロナウイルス禍が起こった時、まっさきに思い出しましたね。

2001年に会社を始めて、4,5年後くらいにはなんとか「スポーツでご飯食べられる」くらいにはなったんだけど、結局2008年に自分が去ることになります。詳しく書くのはアレだけど、一番初めに自分を誘ってくれた「友人(社長)」と方向性が合わなくなっていって、結果的に「もう一緒にはできない」となった。

でも自分の中には「スポーツビジネスでやっていくぞ」という気持ちがもう確固たるものになっていたんで、独立して自分の会社を立ち上げる事にしました。32歳の時。当時の部下が一人だけついてきてくれて、今も弊社の最古参メンバーです。

4.ルーツ・スポーツ・ジャパンの起業と初期の話

2009年、年明けから新しい会社としての活動を開始し、2月3日に設立登記をしました。社名は「ルーツ・スポーツ・ジャパン」。これは、「日本にスポーツを根づかせる」という意味がこめられています。2009年1月1日に、高岡の実家にいるときに思いつきました。思いついたというよりは「降りてきた」。

考えてみれば自分の人生にはいつも「スポーツ」があって、「スポーツの仕事」を選んだのは、自分が生きてきた中でスポーツで体験した「感動」「感覚」が最も素晴らしいものだったから。それをこの世界に増やすことは、自分が好きなコトで「世界を少しでもよくする」ことになるから。まあめっちゃ青臭い話ではあるけれど、スポーツで得られる前向きな気持ち、みたいなものを「日本にもっとずっと増やしていきたいなあという思いです。

「ジャパン」って言葉が入ってるのは僕は「日本」が好きだからです。今後ますますグローバル化が進む世界になっていくだろうけど、自分は「日本」にこだわっていきたい。この言葉には、自分の「一生涯」を賭けることができると思っています。

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ちなみに最初に始めた事務所はこんな感じでした(会社のヒストリーをまとめたスライド 笑)。書いてある通り窓の鍵はねじでくるくる回して締めるやつで、創業メンバーの一人が初日に壊した。民家の2階だったんでおばあちゃんがたまに差し入れをくれました。

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会社をはじめて一番最初に作った資料がこれ。まあシンプルすぎるけど結局こういうことかなと思います。
(RSJメンバーっていってもこのとき僕含め4人しかいないけど・・)

事業はといえば、この頃はまだ今のように自転車、ランニングだけに絞ってはおらず、特に当初2年は実に様々なスポーツ種目を経験しました。とあるご縁から「公共スポーツ施設のマネジメント」という領域に割と深く関わらせていただきようになり、有名なところで言えば「東京辰巳国際水泳場」の広報業務を丸2年担当したりしました。当時「辰巳の広報」として記者発表に出たり、ラジオに出させてもらったりもしました(北島康介選手のセレモニーとかもやったな。懐かしい!)。

あとはスポーツ系の都市公園のソフト事業開発でも、結構色んなことをやった。「テニストーナメントの企画・運営」、「スポーツ施設での音楽LIVE」、「野球教室・ソフトボール教室」、「産後ママのボディケア教室」、「スポーツセーフティスクール」、「ラクロス、フラッグフットボール教室」とかいろいろ。当時(今も)お世話になったプロデューサーの方に鍛えられ、もっともっとたくさん書けるほど、様々な経験をさせていただきました。

でも一方で今につながる自転車、ランニングの仕事ももちろん継続で、今も続いているような自転車イベントを立ち上げたりもしました。2年目以降は徐々に「仲間=社員」も増えてきたんだけど、5人目の仲間=初めての採用活動で入社したメンバーが、良い意味でとても衝撃的だった(最初の4人までは元々の知り合いだったから)。

元地方TV局をやめてジョイン。最初の面接では、まだ4人しかいない「民家の2階」に、木造階段をギシギシさせてやってきてプレゼン。総枚数100枚はあろうかというパワポ資料で「この会社に入って実現したい企画」「いかにこの会社に入って自分を試したいか」をアツく語ってくれたのを今でも覚えてます。はっきり言って給料は激減したんだと思うけど、すべてを捨ててうちにコミットしてくれて。何年か前、彼の結婚式のスピーチでも言ったんだけど、入社して3ヶ月くらいのタイミングで、「もっと会社大きくしていくから、それは約束するから、うちの№2になって欲しい、リーダーとして引っ張って言って欲しい」って伝えた。で、今まさにそうなっています。

彼が入ってちょうど1年後くらいに、みんなに「初ボーナス」を出した。最初は雰囲気出すためにわざわざ現金を「封筒」に入れて。もう、そこから10年経ったんだな。(今いるメンバーがそれぞれ入社してくるくだりとか、全部めっちゃ思い入れ深いけど、さすがに長くなりすぎるから1人目だけ 笑)

5.主催事業の立上げ/スポーツツーリズムへの集中

そして2011年3月にあの「東日本大震災」が起こりました。地震が起こってしばらくは、世間はもうスポーツどころじゃなくなり、イベントなんてもってのほかって感じに(そりゃそうだ)。でもそのタイミングで、自分たちの「主催イベント」を立ち上げることに。

コンセプトはとてもシンプルに「震災で落ち込んだ日本を、スポーツで盛り上げること」。僕らが自信を持ってノウハウを提供できる「自転車、ランニング」に絞り、「スポーツイベントを開催して地域を活性化しましょう!」みたいな企画書を書いて、開催地の募集を始めました。

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最初の企画書はこんな感じ。プロジェクト名を「WizSPO!!」と称していた。

確か翌年度(2012年)に自転車・ランニングあわせて6-7イベントくらいのシリーズで開催でき、その後年々開催数も増え、今では自転車は「ツール・ド・ニッポン」というプロジェクトに独立しています。

この「ツール・ド・ニッポン」はサイクルツーリズム(=サイクリングを活用した観光振興事業)という分野で今非常に評価をいただけるようになり、今はイベントだけじゃなく、人材育成事業、スマホアプリ事業、少人数制のガイドツアー事業、そして地域の誘客戦略を策定していくためのマーケティング調査や政策提言など、かなり活動内容は拡がっています(このあたりは詳細まで書くとめっちゃ長くなるので、また今度書きます)。

ちなみにはじめの頃は「スポーツツーリズム」という言葉はまだ世になかったんで、使っていませんでした。「スポーツ×地域活性化」は使っていた。活動のコンセプトは何も変わらないので、「あとから言葉をつけてもらった」みたいな感覚もあります。

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ツール・ド・ニッポンのコンセプトは「たのしいがゴール。」2019年にリニューアルしました。
関連記事:「たのしいがゴール。」 ツール・ド・ニッポンの新コンセプトが発表

また2017年からは観光庁の「テーマ別観光による地方誘客事業」に3年連続採択いただいたり、「スポーツ振興賞(2017)」、「スポーツ文化ツーリズムアワード(2018)」、「自転車活用推進功績者表彰(2019)」、「ジャパンツーリズムアワード(2019)」等も受賞させていただくことができました。

これらの「公のご評価」、はじめは決して意図して狙ったわけじゃないけれど、重ねて受賞させていただきホントにありがたい限りです。「自分たちがやりたい事業」を推進していく上で確実に力になっています。

6.会社の10周年と新ビジョン→コロナ禍

そして2019年2月には創業10周年を迎え、新たなミッションとして「心まで動かせ」という言葉を紡ぎ出しました。これは数あるスポーツビジネスの中でも、やっぱり僕らは「スポーツツーリズム」・「スポーツ×地域活性化」といった事業領域に集中して、ますますその領域を極めていこうっていう意思表示です。

「心まで動かせ」
スポーツがもたらす
素晴らしい感覚に触れられる機会を
日本中につくり出そう。
あらゆる地域に人をめぐらせて、
日本をもっと元気にするために。
カラダだけでなく心まで動かせ。
私たちが生み出すスポーツの力で。

ここからの(少なくとも)数年間は、「心まで動かせ」というミッションにフルコミットして事業を展開していこうと考えています。

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ミッションステートメント(ルーツ・スポーツ・ジャパンのWEBサイト)

このnoteを書いている2020年7月現在、「新型コロナウイルス」の問題はまだ終息しきっておらず、スポーツビジネスの業界もまだまだ予断を許さない状況だけど、「スポーツ」はウィズコロナだろうとアフターコロナだろうと、必ず人々にとって必要な、大切なものであることに変わりはないと思ってます。

少し「提供の方法」は変わるだろうけれど、スポーツが人々にもたらす素晴らしさの本質は変わらない。これからも自分たちのミッションに沿って、軸はぶらさず、かつ変化・成長を続けながら活動をしていきたいと思います。

また個人的には、最近(2020年になってから)Twitterをちゃんとやるようになりました。世間的にはスポーツビジネスというとサッカーや野球など「観戦型プロ興行」をイメージすることが多いと思うけど、僕らがやっている自転車やランニングなどの「ロード・スポーツ」また「スポーツツーリズム」の世界もダイナミックで非常に面白いので、そういった領域の魅力や情報なんかも発信していけたらなと。

また自分も気づいたら40代、一応色んな経験をしてきたんで、もし他の人の役に立つことがあるのならば、特に若い人なんかに自分の経験を伝えていけたらいいなとかも思ってます(そんなこと2,3年前とかは考えたこともなかったけど・・。歳とったな・・笑)

そしてこちらのnoteでは、加えて「普段の我々の事業の裏側」、「スポーツツーリズム・スポーツ×地域活性化についての気づき、情報」、「その他スポーツビジネス全般への個人的な意見」等を、少し長めに書きたくなったら更新していこうと思います。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

*Twitterでは「スポーツツーリズム」「スポーツ×地域活性化」分野での日々の気づきや情報、またスポーツビジネス経営者としての日常等を発信しております。

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