自虐で包んだ被虐と嗜虐

皆さまこんにちわあるいはこんばんわ

少し物騒な雰囲気のタイトルですがちょっとした情報整理、思考整理です

心理学的な話になりますが個人的には哲学と同じく
「心理学をすることを学ぶ」ことはできても「心理学は学べない」のではないかと考えています
研究を続けている方からしたら怒られ発生案件な感じもしますがw
それでもそれなりに履修して数千人以上の人間と対話してきた経験を合わせたものであります
社会心理学とはデータ統計学であり、その他心理学ですら膨大なデータから観測、推察された平均値に過ぎないと考えております

さて、言い訳はこの辺りにして


自虐について少し
病的な自虐とは?
医師が診断した「自虐症」のことですね
自虐兆候があれども診療を受けなければ病的ではないのか
これが心を扱うことの難しさだと思います
言い訳にも書いた通り正解のテキストがあるように見せかけてとても不完全な分野であると思います
そして診断する側も人間である以上完全ではない

と、また前置きした上で
日本人の大半は統計的に自虐的なのではないかと考えます
暴論のようですが日本の色濃い文化として「謙遜」へりくだると言う性質があるかと思います
自分を下げる=自虐とどれほどの差があるでしょうか

軽い言い回しでの自虐?いえ、軽くないですよね
場面によっては自分を貶めるレベルで自分を下げる必要に迫られることもあるかと思います
社畜人類にとっては思い当たることばかりかと思います

他にも兄弟姉妹で育った場合や片親家庭で育った場合、少し変わった親元で育った場合など
成長過程で既に自己を「下げる」もしくは「否定」することを刷り込まれるケースが多々あるのではないかと考えます

他責思考は好きではないのですがこればかりは統計的に否定は難しく
反面教師や性質の模倣に繋がることは否めません
何者かと関わる以上はその影響は否定出来ないのです
で、余程の環境でなければ「弁え」「控え」「抑え」て生きるのが基本になるので

他者へ配慮して自己を蔑ろにする行為が既に自虐行為であると考えます

個人的な自虐への解釈はこのような感覚であり、例え専門家が診断が「ある」「ない」や「定義」で分けたとしても否定は出来ないはずです
観測者ではない誰かが表では見えないが心の内で自分を痛めつけていない、「謙遜」行為で傷ついていない事を観測者には証明出来ないので


さて、それでは自虐が覆い隠しているモノに触れていきたいと思います
自虐の本質の正体を「謙遜」と仮定して話を進めます
包み隠さなければならないもの「自我」「主張」それは「嗜好性」ではないかと考えます
人となりを露にすることは上下に関わる本質を露にすることになり得ます
「謙遜」することを阻害しかねないので「隠す」べきものとなります
なぜ?
ここで「被虐」と「嗜虐」が指標になるのではないかと考えます
この言葉はフェティシズムに関わるプレイ的な言葉、疾患や障害的な状態を表す言葉、軽い感じで気質を表す言葉としての様相を持っているとは思いますが
心理学的な題材であるにも関わらず「性的嗜好」としての解釈が世間一般には放り出されているだけであったりします
(※深く研究、検証されている方がいらっしゃったら申し訳ありませんが目に触れないので)

脱線する前にw
確認しましょう「被虐」と「嗜虐」の立ち位置とは何処からくるものであるのか
単純に「守備」と「攻撃」であると考えます
守ろうとする心理、意識が「被虐」であり
攻めようとする心理、意識が「嗜虐」である
その結果による達成感からドーパミンを得る
心地良さや快適さを求める事を「性的嗜好」と関連付ける感性が深く広く根付いていると個人的には感じておりますが
そもそも「性的」とはなんぞやと言う話です
盛大な怒られ発言になりますが禁断の果実、知恵の実の影響を受けすぎではないかと
葉っぱで股間を隠して、女性は腕で胸も隠す
いや恥ずかしいわ
誰が決めたん男は上半身裸でも恥ずかしくないとか


結局脱線しました←

まぁそういう事です
教育が歪んでいるのでそうなります
秘め事、睦事はより心地よく楽しむ為に「あえて」行うべきで「強制」されるべきではないと個人的には考えます
その辺り先人は現代よりも柔軟であって、多様で自由な時代も記録に残っていたりします
何が言いたいのか
近年の多様性への意識改革的な世界の流れは未だ一部の時代に作り上げられた偏見の延長
認めろと声をあげる側すらも無意識に偏見の枠に囚われている可能性もあるのではないかと
思い込みの波紋が連なり波として寄せて返している状態が世相であると思います

さて、脱線ジャンプから戻るのに少し苦戦しましたが言い訳前置きを元に組み立てていくと
世間的にライトな意味、ディープなプレイ的な意味で言うところの「被虐」と「嗜虐」、「S」と「M」と呼ばれる性質への思い込みの話
思想、哲学の習慣が少ない人にありがちな発言かと思われますが
「他者」が「自分」がどちらか?と言うセリフを耳にします
体感的なところもありますが世相として100を何パーセント何パーセントで分けていてどっち寄り
故に「誰々はどっち」との解釈が生まれるものかなと思います
思い込みによる断定と誤認が一般化した感性ではないでしょうか
もちろん完全に間違いでもないし、証明されている出来事でもない
しかしながら「被虐」「嗜虐」それぞれにパラメータが存在すると考える方が解像度が上がるのではないかと考えます

場面に応じて守ろうとすること、攻めようとすることはより良い方向を目指す行動であり
本質的なことではないでしょうか
そうすると「被虐」「嗜虐」が容量100の箱の中でどれだけずつ入っているかではなく
それぞれの物差しの長さで比べることになり、相対する場面や人に応じて見えかたも立ち回りも変わっていくと思われます



書き始めから中断が入り時間経過と共に内容が膨らみ過ぎたので(脱線もしたし)分割することにしました
今回は簡単にまとめると
Sっ気Mっ気は弁えると言うフィルターでぼかされたアイコンであり
実像は掘り下げてみなければ解らない
そして本当に特殊なケース以外は誰しもがどちらも持ち合わせているモノ
として、それぞれの性質がなんたるやと言う話はまた別に書いて行こうと思います
「つづく!」と言う少し落ち着きの悪い記事になりましたがこれ以上を一本で進めると
また話がぴょんぴょんしてしまいそうなのでw

↓(つづき)


それでは最後までお付き合いありがとうございます
この記事があなたの明日からの世界をより良く出来れば幸いです

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