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トラウマを認めたことで見えてきたもの

前回の記事で本のご紹介を。と書いたのですが、、、
その後いろいろな本を読んで、まとめきれなくなってしまいました(笑)
なので、大脱線して自分の症状の振り返りを書こうと思います✎

なぜ振り返ろうかと思ったかというと、トラウマを認めることで自分が今までずっと苦しんでいた症状や受けてきた治療の意味などが繋がり、とても目の前が開けてきたなと感じているからです。

そしてただ認めるだけでも「こんなにも変容を促すのか」という喜びが沸々と湧き上がっています。

せっかくなので、その喜びを書き留めておこうと思います。

はじまりは約20年前

私が身体の異常を初めて感じたのは高校2年生の時。
ゆらゆらと船酔いのような目眩が続き、学校に行くのもままならなくなりました。

この時の感覚は「生きているのかよく分からない」。
世界がずっとふわふわしていて、ずっと宙に浮いているような感じだったので、なんだか不思議な感覚でした。
不快というよりは変な世界に紛れ込んでしまったのかしら?という感じ。

この目眩の原因がよく分からず、様々な病院に行きました。
内科、耳鼻科、脳神経外科、心療内科、精神科、、、

最終的に言われたのは「自律神経失調症」。

当時は特にコレといった有効な治療法もなく漢方を渡されたのみ。
のちに「原因不明の病気は自律神経失調症と診断される」と何かの本で読んでショックを受けたのを覚えてます。笑

生活を変えたら目眩は徐々に落ち着いてきたものの、この頃から精神的な症状が出始めるようなり、それまで寝る間を惜しんで頑張っていた勉強が一切できなくなりました。

社会適応できない日々

結局大学には行けず、ひきこもりなどを経て少しずつ社会に出ましたが、ずっとメンタルの症状は出続けました。

仕事を頑張り始めると体か心のどちらかに症状が出てしまい、長くは続けられず、やめてしまうを繰り返すように。

そのうちに自己肯定感はどんどん下がり続け、
「仕事が続かないダメ人間」という自己評価になっていきました。

”社会に適応できないなら死ぬしかない”

その恐怖心によってコントロールが効かない自分の心身を罵倒しながら、なんとか稼働させていました。

当たり前に希死念慮はあったし、ずっと生きづらさ、苦しさがどこかにありました。「普通になりたい」と、もがく日々でした。

病名探し

この頃はとにかく自責ばかりで、「意思の弱さ」を責めると同時に正確な病名探しを続けた日々でした。

正確な診断がされれば少し良くなるだろう」と思っていたからです。

軽度のうつ病、適応障害、不安障害、双極性障害、視線恐怖症、PMDD

全部違う病院で言われたことです。
自分が医師に話す症状のニュアンスでいとも簡単に診断名が変わってしまうこと。それに対して処方される薬が変わることに恐怖も感じました。

カウンセリングも受けましたがこの頃は傾聴のみのカウンセリングで、ツライ気持ちを吐き出し、その場ではなんとなく楽になったような気はしても根本的な変化はなく、高額なカウンセリング費用がかえって負担にもなっていました。

栄養療法やスピリチュアルなども含め、調べて良さそうなことを試しては、対して解決に至らず落胆するを繰り返していました。

最大の転機

最大の転機は24歳の時に今の夫と出会えたことです。
自分の陰の部分をさらけ出しても嫌われない」ということを人生で初めて経験しました。

それまではうつのような症状が出てくるとバレるのが怖くて自分から別れを告げることがほとんど。症状を見せてしまった相手が去っていくことも経験していたので、さらけ出すことは恐怖です。

そんな私を夫は嫌がることもせずに、当たり前のように受けれ入れてくれました。カウンセラーのような一面もあるので、私の話を聞いて一緒に色々考えたり、分析もしてくれました。

そんなこともあり、結婚後は「病名探し」に疲れて医者に頼るのをやめたのです。(といっても通院はしばらくしていましたし、服薬もしていました。)

そして、自分自身で認知行動療法やスキーマ療法などを生活に取り入れることで、少しずつ自己認識ができるようになってきました。
治療用ピルを飲み始めたことで、症状としてのホルモンバランスの乱れが落ち着いたことも大きかったです。

働き方の変化

結婚後にフリーランスという働き方を選んだことで外出や人との接触といった「刺激」が少なくなり、症状自体がかなり落ち着きました。
また、この頃初めて信頼できるカウンセラーさんと出会うこともできました。

そんな経過の中で少しずつ自傷行為(自分を殴ったり、髪の毛抜いたり)や希死念慮が和らいできたのをキッカケに、このnoteを書き始めました。

↓一番最初の記事

最近は「だいぶ私は良くなったし、死にたくなくなった。
このほんのりツライ感じはあるけど、みんなそんなもんだろう
」と思っていました。

ただ、仕事になると自分の無能感が強く出たり、ちょっとしたことで異常に緊張したり、睡眠障害があったりは変わりませんでした。

世界は危険なところだから、いつでも警戒していなければいけない。

という動物の本能的な感覚は常にあり、一体全体どうしてそんなことを思うのか?前世はライオンの隣に生まれたウサギだったりしたのかな?と思ってました。笑

びくびく。

また、久しぶりにフラッシュバックを経験したことで、根っこの部分はまだまだなぁと実感したわけです。

トラウマを認めるということ

そして前回の記事で書いたようにトラウマを認めること。
そこにようやく立つことができました。
(正直、まだ自分の中に否定の声はあるけども…)

複雑性トラウマを知り、その後ポリヴェーガル理論、構造的解離や内的家族システム療法についても知りました。
その地平から私の今までの症状を眺めた時に、すべてが繋がったのです。

・幼少期の複雑性トラウマ体験により自律神経が戦闘モードになり、
過覚醒<活動しすぎる>と低覚醒<活動できない>を繰り返すようになってしまった。
(この自律神経の働きのことをポリヴェーガル理論といいます)

・一度学んだ「自律神経の使い方のクセ」が症状を引き起こしていた。

・治療には手続き学習化してしまった脳の神経や自律神経に新しい回路を経験させていく必要がある。
→大人になった自分の視点から、こどもの時に解離させてしまったパーソナリティを統合させていく必要がある

こんなシンプルなことだったんだ。とわかりました。
(実際はシンプルではないんだけども(笑))

一つの道筋が見えただけで、「自分の性格のせい?遺伝のせい?家庭のせい?何の病気?もはや先祖代々の呪いですか?」とぐっちゃぐっちゃになっていた時とは比べ物にならないほど眼の前がクリアです。

ずっと悩んでいた「思考ではわかっているけれど、感覚や身体が反応してしまう」という点についても、思考と感覚を担う脳の部位が異なるので、いくら思考でコントロールしようと思っても難しいということも理解できました。

今後、トラウマとどう向き合うか

トラウマ治療については「トップダウン型」と「ボトムアップ型」のアプローチがあります。
トップダウン型は言葉を用いて論理的な脳にアプローチしていく方法で、ボトムアップ型は身体や神経系から始まり、感情や認知にアプローチする治療方法です。

私の場合は「頭では分かっているけど・・・」という感じなので後者を比重多めにやっていたほうが良いのだろうと思っています。

自分自身で取り組んでいるのはIFS(内的家族システム療法)のパーツワークです。
とっても簡単に言うと、人間の内面を様々なパーツと捉え、それぞれのパーツと対話していく手法です。

人間の内面には様々な感情をもったパーツがある

このパーツワークについても詳細はまた記事で書きたいなーと思っているのですが、今までカウンセラーさんと行ってきたプロセスワークの要素がふんだんに盛り込まれています。

さらに、パーツワークの際は「セルフ」という視点から自分の様々なパーツを眺めるのですが、これはずっと実践してきた「瞑想」がとても役に立ちます。

今までやってきたことの点と点がようやく結ばれた、謎解きができたような気持ちになり、とってもとっても嬉しく、本を読んでは何度も泣きました。

パーツワークについては専門家の力を借りたほうが良いのだろうな、、、ということは感じているのですが、関東から香川に越してきてたこともあり、近場で専門的な治療を受けられるところがあまりありません。

また、自分自身も昔のように「治してやろう!!」と躍起にはなってないので、今回の気づきがあったことで既に自分の中では変容という名の治療が始まっているとも思っています。

パーツワークをやり始めてから解離させてしまったパーツ達が話を聞いてほしいのか症状が強くでたり、しんどいこともありますが、こういった経験や感覚を通してでしか治療も進まないと思うので、前向きに捉えたいと思います◎

「もうこれで終わりかな」と思っていたけれど、また新しい課題を与えてくれた人生の流れが残酷かつ、おもしろい。そして希望に満ちていると感じます。


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