【超短編】春と通勤バス
通勤バス、毎朝私が乗り込むと、運転席の近くのつり革に捕まっているあの人。
名前も職場も何も知らない。
当然だ、赤の他人だから。
でも、
眼鏡をかけた横顔、短く切り揃えられた髪型、スーツに身を包みスラリとした後ろ姿。
骨格が好みだった。
一目見て、その姿が素敵だと思った。
それは6月の初め、じっとりとした梅雨特有の気候のある日のことだった。
◇
その日から、バスに乗り込んでは、前方に立つその姿をこっそりと盗み見るのが日課になった。
毎日、毎日。
私が乗り込んでからあの人がバスを降りるまでの十数分間、焼き付けるように見つめた。
左脚に体重をかけて立つのが癖のようで、少し気怠げに見える立ち方が様になっていた。
夏場はライトブルーの半袖シャツ、冬場はグレーのマウンテンパーカーを愛用しているようだった。
左腕には控えめなシルバーの腕時計をつけていた。
装いの端々にセンスが光った人だった。
◇
装いの変化と共に季節は流れた。
ほぼ毎日見ていた姿、今日で見納めだ。
名残惜しくなるほど、あの人を見続けていたことに改めて気付かされる。
名前も職場も知らない人、毎朝十数分だけ眺められるその姿に思いを寄せることは、果たして恋と言えるだろうか。
時たま、あの人がいつもの時刻に乗り込んでこない日があった。
そんな日は、一日中心がくすんで沈んで重かった。
1日見かけないだけでもダメージが大きかったのに、これからはその姿を見つけることが出来なくなることを考えると、慣れ親しんだこの街を出ていくよりも辛かった。
この春、私はこの町を出ていく。
もうすぐ3月も終わる。
飽きるほど乗ったこのバスも、今日で乗り納めなのだ。
あの人の後ろ姿を眺めるのも、本当に最後のなのだ。
今日も、あの人はいつものバス停で下車していった。
告白もしていないのに、失恋したかのような喪失感を抱いてしまう。
後には何も残らない、孤独な片思い。
バスが彼を追い抜く刹那、窓ガラス越しに見える横顔に唱えた。
決して届かないさようならを。
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