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【超短編】春と通勤バス

通勤バス、毎朝私が乗り込むと、運転席の近くのつり革に捕まっているあの人。

名前も職場も何も知らない。

当然だ、赤の他人だから。

でも、

眼鏡をかけた横顔、短く切り揃えられた髪型、スーツに身を包みスラリとした後ろ姿。

骨格が好みだった。

一目見て、その姿が素敵だと思った。

それは6月の初め、じっとりとした梅雨特有の気候のある日のことだった。



その日から、バスに乗り込んでは、前方に立つその姿をこっそりと盗み見るのが日課になった。

毎日、毎日。

私が乗り込んでからあの人がバスを降りるまでの十数分間、焼き付けるように見つめた。

左脚に体重をかけて立つのが癖のようで、少し気怠げに見える立ち方が様になっていた。

夏場はライトブルーの半袖シャツ、冬場はグレーのマウンテンパーカーを愛用しているようだった。

左腕には控えめなシルバーの腕時計をつけていた。

装いの端々にセンスが光った人だった。



装いの変化と共に季節は流れた。

ほぼ毎日見ていた姿、今日で見納めだ。


名残惜しくなるほど、あの人を見続けていたことに改めて気付かされる。

名前も職場も知らない人、毎朝十数分だけ眺められるその姿に思いを寄せることは、果たして恋と言えるだろうか。


時たま、あの人がいつもの時刻に乗り込んでこない日があった。

そんな日は、一日中心がくすんで沈んで重かった。

1日見かけないだけでもダメージが大きかったのに、これからはその姿を見つけることが出来なくなることを考えると、慣れ親しんだこの街を出ていくよりも辛かった。


この春、私はこの町を出ていく。

もうすぐ3月も終わる。

飽きるほど乗ったこのバスも、今日で乗り納めなのだ。

あの人の後ろ姿を眺めるのも、本当に最後のなのだ。

今日も、あの人はいつものバス停で下車していった。

告白もしていないのに、失恋したかのような喪失感を抱いてしまう。

後には何も残らない、孤独な片思い。

バスが彼を追い抜く刹那、窓ガラス越しに見える横顔に唱えた。


決して届かないさようならを。


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