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「生産性」というやっすい言葉

「生産性」という言葉は馴染みがある。
少なくともその概念自体に直接触れていなくても、社会が示す指標みたいなものだと受け止めていた。ほとんど無自覚に。だから私は20代、「生産性がない」「創造性がない」自分に対して後ろめたさを持っていた。それらは何も出産の有無の問題だけではなくて、社会に対して何も生み出せていない、寄与していないという意味で。どこかで役立たず、無価値だと思っていた。振り返ると胸が痛く、そしてこの言葉の呪いは恐ろしいと改めて思う。この言葉の裏の意味というか、真のメッセージ性に気づいた今、生産性なんかなくていいし、むしろ何もなくても大丈夫だと当時の自分に言いたい。薄っぺらい言葉に騙されるな、と。

建築学科出身の教授は母校で教鞭を取っていた。全く笑わない人で、全体講義に遅刻してきた学生にも容赦なく叱った。性悪説を掲げていたし、ものづくりを教える大学に向かって「本来この大学は、存在しちゃいけないんだ」と言っていた。批判精神旺盛な偏屈者と内心思っていた。言うことがかなり極端だったので積極的に近寄る学生はほとんどいなかった。でもその人が「昔は夜になると真っ暗。人間は皆、夜になったら電気なんかなかった頃の生活に戻らなくてはいけない」と豪語していたのが、やけに引っかかった。そんなこと不可能だろ経済回せなくなるし、私は夜行性だし、と当時の自分はそう思いつつ、一理あるかもしれないとどこかで感じていた。

生産性がある/ない、とは、本来ターゲットとなるものづくりが利益を上げるか否かを示すだけの言葉だったのではないか。経済用語というか。「○○性」とつけると、だいたいそれっぽくなるし。悔しいのは、私はこの言葉に対して、本当は早々に違和感を持っていたことだ。しかし世の中の条理だから、道理だから、ということで無意識に呑んでいた。こういうことがたくさんある。いちいち箱をひっくり返して箱の中身を確認すると、これはやっぱり違うんじゃないかと思うこと。そういうものに長年苦しめられていた。

ほぼ同世代の有名ミュージシャンが呟いたあるツイートが優生思想だと批判されていた。確かに浅慮なツイートだと思った。しかし経済の衰退が明らかになっているのに、いや、そうであるがゆえに科学の発展や、ITの発展を約束されるように教え込まれ、社会という要するに巨大市場に寄与することを期待された20代〜30代は、確かに空っぽの夢の裏返しとして残酷な思想を持つ者が少なくない気がする。そして断言することで主張が強くなった気がしてしまう。根拠がない自信。不安定な自信のなさを埋めるように他者や他国と比較する。「こいつらよりマシだ」と。ネトウヨと呼ばれている人たちは、主体性がなくどこまでも愚直で純粋だなと感じることが多い。一途で、迷いがない。親や先生が言うことは絶対だとある年齢を過ぎても思い込める。色々な思想があるのは当たり前だ。でもたまに、彼らこそ被害者に見える時がある(老人は別。あくまで若年層が)。だって当の支持をされている政治家は「議論は必要ない」とのたまう。そして結局海外に向けて明らかな売国行為をしていた。わからない。私には支持者さえ堂々と欺く行為に見える。ねえ信じても、そいつら結局何もしてくれないよ。生命を駒にしか見ていない。戦争を美化するとはそういうことだ。

何もないじゃないか。最初から何もなかったのだ。空っぽの拝金主義の陰で、どれだけの人間らしい暮らしや心が、潰されてきたのだろう。生産することよりも、現実をちゃんと見て、夢なんかよりも足場を固めなくては。すべてを疑う…とは言い過ぎだけど、もう二度と、やっすい言葉に騙されないようにしたい。何も生み出せなくても、ここにいるだけでいい。それは私もあなたも。何もなくても、生きてさえいればいい。だって希望があるとしたら、自分だけの中にしかない。今はそう思う。

生産性がなんだ うるせえよ ばか

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