【創作】渓谷の町医者の話
ある国の国境にほど近い小さな渓谷に、町があった。
この町から遠く離れたところでは、戦争があった。
時折、その戦場から落ち延びてくる人もいたし、通りがかりの商人や旅人に救われて、この町に来る者もいた。
その日も、この町の医者のもとに、けが人が運び込まれてきた。
「けが人だ!医者を呼んでくれ!」
声の主はレギルスという商人だった。
彼は隣町まで出かけていた帰りに、けがをして倒れている男の兵士を見つけて連れ帰ったのだ。
レギルスはお人好しで、これまでも何回も行き倒れた人を運んできた。
そして、彼が連れていくのは決まって、このギートという名の町医者の診療所だった。
「またつれて来たのか、レギルス。」
「やあ、ギート。帰りに仕事を持ってきたぞ。」
「うるさい、町の患者だけでも手いっぱいなのに。」
ギートはぶつくさと言いながらも、その男を治療室へと招き入れ、レギルスに外で待つように言った。
けが人は青い顔をして、泥だらけでぐったりとしていた。
足をくじいており、額にも切り傷があった。
ひどく殴られたようで、そこかしこにあざがあった。
ギートははっとした。
彼の着ている服は、敵国の兵士のものだった。
ナイフや爆弾などは持っていなかったが、なぜかその他の身分を証明するような所持品すら、ほとんど何もなかった。
「亡命してきたのか?」
ギートは男に問うた。
男はしばらく目をつむっていたが、「そうだ」とぼそりと言った。
「額の切り傷がひどいな、少しばかり縫うぞ。」
ギートがいうと、素早く処置を済ませた。
覇気も生気もないその男は、涙を流した。
傷が痛かったわけではなかった。
静かに泣きながら、「礼を言う、ありがとう・・・」と言った。
ギートはそれ以上、何も言わなかった。
待合室で待っていたレギルスは、ギートが出てくるといくらかの紙幣を渡した。
「もらってくれ。
あの男の治療代だ。
私がかわりに払うから、しばらくここに置いていてくれ、な。」
「レギルス、」ギートは困ったように頭をかいた。
「そいつは受け取れない。」
「いいんだ。お代は後で、あの男から返してもらうから。」
「そう言って取り立てたことなんか、これまで一度もなかったろう。」
「いいんだ、ギート、いつも君には世話になっている。」
「でも・・・」
ギートが何度断っても、レギルスは引き下がってくれなかった。
仕方がないので、ギートはその紙幣を預かることにした。
「恩に着るよ、ギート。」
「着なくていい。そら、帰った帰った。」
ギートは手で追い払うようなしぐさをして、レギルスを追い出した。
二人は昔から仲が良かったが、いつも助けられていたのは自分のほうだと、ギートは思っていた。
「まったく、本当におせっかいな奴だ。」
彼は紙幣を見つめてつぶやいた。
その夜、男は目を覚ました。
どれくらい眠っていたのかわからないが、部屋の中は暗かった。
部屋?
どこの部屋だったろうか。
思いめぐらし、彼は昼間のことを思い出した。
「そうだ、ここは・・・おれは・・・」
亡命する途中で賊に襲われ、持ち物はみんな奪われてしまった。
身ぐるみをはがされなかったのは不幸中の幸いだったが、あの時の賊の言葉が耳に焼き付いていた。
「こいつ、敵国の兵士だ!
お前のせいで、俺たちは住む家も家族も、友も失ったんだ!
どうしてくれるんだ、この野郎!」
罵声を浴びながら、殴られて蹴られた。
必死で命乞いをした。
殺されると思ったからだ。
そのうち、賊の仲間の一人が止めに入ったので命は助かったが、心臓がえぐられるような気持ちになった。
そのあと、とおりがかったあの行商人に運ばれたのだ。
生き地獄のようだ。
男は苦虫をかみつぶしたように顔をゆがめた。
夜が長く感じられた。
翌朝、ギートは男の様子を見に行った。
男は目をつむっていたが、ずっと涙を流していた。
「どうした、傷が痛むのか?」
ギートが声をかけると、男はちらりとギートに目をやった。
とても悲しそうに悔しそうに涙を流していたが、何も言わなかった。
「腹は減っていないか?今、スープを持ってこさせよう。」
ギートは不思議に思いながら、その場を離れた。
それから一週間ほどして、額の傷の抜糸が済んだ。
男は改めて頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます、先生・・・」
「お前さんがちゃんと飯を食って養生したおかげだ。
私は何もしていない。」
ギートはじっと男の顔を見た。
まだ若そうだった。
ギートは4枚の紙幣を取り出して言った。
「ここに、2万円ほどある。
お前さんを担ぎこんできた男が、治療代にと置いていったものだ。」
「えっ」
男は困惑した。
ギートは続けていった。
「だが、さっきも言ったとおり、私は何もしていない。
私は傷を縫い、捻挫と打撲の手当てをして、スープをあげただけだ。
だから、治療費はかかっていない。
このお金は、お前さんが持っていたまえ。」
そして半ば強引に、男の手に金を握らせた。
「し、しかし、おれは・・・受け取れません、そんな・・・」
そう言って金を返そうとした。
「もし、返したいなら、こうしてくれ。
ここを出た後、何でもいいからきちんと仕事を見つけて、稼いで、それから来てくれ。
わかったか。」
ギートの口調は毅然としていて、厳しかった。
しかしどこかに、確かに、暖かさも混ざっているような気がして、男は紙幣を見つめながら首をこくりと縦に振った。
「どうして・・・」
男は言った。
「どうして、敵国の兵士であるおれに、ここまでしてくれるんですか。
おれはここに来る前、ある賊と会いました。
その人は、おれのせいで家も家族も、友人も失ったと言って、おれを殴り、蹴りました。
おれは人から恨まれても憎まれても、殴られても蹴られても仕方のない人間なんです。
だのに、なぜこんなにもよくしてくださるのかわからない。
あなたはおれが、憎くないんですか。」
言いながら、悲しさと悔しさで胸が詰まる思いで、彼は涙を流した。
ギートがあの時に見た涙は、こういうことだったのだ。
男は紙幣をぎゅっと握りしめながら、ギートを見た。
ギートは答えた。
「亡命しなきゃならんほどの人間を憎んだところで、それで何になる。
けがをしているならなおさらだ。
私は医者だ。
けが人と医者の間に、国同士の争いごとなんか関係ない。
それにけが人を助けなかったら、私は使命を果たせないだろう。」
そうは思わないかね、とギートは言い残し、部屋を出ていった。
男の手には、くしゃくしゃになった紙幣が握られていた。
その後、この男がどこへ行き、どうしているのか、その消息は知れなかった。
町医者のギートは、今日も人々のけがや病気の治療に励む。
「おーい、医者を呼んでくれ!
けが人だぞ!」
レギルスの声に、やれやれとかぶりを振る。
「こっちへ連れて来い、レギルス!
今、手が空いたところだ。」
戦争はまだ終わりが見えない。
ギートは、運ばれてくるけが人があの男でないことを願いながら、今日も使命を果たしている。
おわり。
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